カシオペア (バンド)
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歴史
第1期(結成から1989年まで)
野呂一生と櫻井哲夫の出会いによる結成
1974年、当時高校三年生だった野呂一生と高校二年生だった櫻井哲夫は別々の高校に通っていたが、ともに属していた都内のロック演奏のコミュニティで出会って意気投合し、ベック・ボガート & アピスを目標として都内の練習スタジオでセッションしだすようになる。翌1975年、野呂は明星大学に進学し、その大学の軽音楽同好会のメンバーで構成されたロックバンドのファンシーハウスや中山ラビのバックバンドに参加してセミプロとして活動開始するも、それらはいずれも短期で離脱して、自作曲を元にした櫻井とのバンド活動にシフトが置かれるようになる。野呂と櫻井以外は常にメンバーは流動的で、ボーカルを従える時期などもあったが、次第にハードロックやファンクをベースとして、そこにジャズのエッセンスを加えたインスト音楽にバンドの方向性は持って行かれた。
バンド名の由来
野呂と櫻井で結成したものの、このふたり以外に固定メンバーがそろわずに活動していたためバンド名もライブを行う度に適当に付けられていた。しかし、あるミニコミ誌の取材を受けた際、「正式なバンド名がなければ載せられない」という申し出があり、野呂が自宅に帰って母親に相談したところ、「星座の名前なんていいんじゃない?」とのアドバイスに星座の本を広げて選んだのがカシオペアである。ただ、英字表記はCasiopeaとし、出典元のカシオペヤ座 (Cassiopeia) の正式な表記とは異なる。
バンド・コンテスト出場と向谷実の加入
バンドの名称をカシオペアと改めた後の1976年、野呂と櫻井、先述のロック演奏のコミュニティに属していた小池秀彦(キーボード)と鈴木徹(ドラム)を入れた4人編成でヤマハ主催のアマチュア・バンド・コンテスト「EastWest'76」に出場し、決勝大会まで進出して野呂がベストギタリスト賞を獲得したことでアマチュア・シーンに名前が知られ始める。しかし、決勝大会出場直後に鈴木は掛け持ちしていたプリズムのレコードデビューが決まったことからそちらに活動シフトを置くために脱退し、小池も当時様々なバンドを掛け持ちしていて多忙であったことから鈴木の脱退を受けてフェイドアウトするように脱退していってしまう[注 4]。再び野呂と櫻井のふたりだけになったカシオペアは、翌1977年に開催される「EastWest'77」に出場するべくメンバー探しに奔走。野呂は友人のツテを頼って、自分と同学年の年齢で、当時合歓音楽院(現・ヤマハ音楽院)エレクトーン科在籍中だった向谷実をキーボーディストに勧誘して引き込んだ。その際、野呂はカシオペアの指向について、向谷が信奉していたミュージシャンのひとりを引き合いに出して「チック・コリアみたいな音楽(当時活動していたエレクトリック編成のリターン・トゥ・フォーエヴァー)をやっている」と口説いた。一方、ドラマーの人選はなかなか決まらず、幾人か代わる代わる入れ替えながら出場して行き、決勝大会出場時になってようやく佐々木隆で固定される。カシオペアは最優秀グループ賞と野呂の二年連続のベストギタリスト賞を受賞した。これが足がかりとなってカシオペアは「EastWest '77」決勝大会出場メンバーでプロデビューを目指すこととなって都内近郊でライブ活動開始。1990年代以降はこの1977年を公式にカシオペア結成の年としている。
このデビュー前の時期、「EastWest'77」の審査員だった鳴瀬喜博に見いだされ、野呂と向谷はプロとしての仕事に度々誘われるようになる。また、大村憲司、村上秀一といったフュージョンに傾倒していたロック系ミュージシャンとも交流を築く。先行してデビューしていたプリズムとは同じロック演奏のコミュニティ出身だったことから、ともに結成以前からメンバー間の交流もあった一方で、フィールド違いの大学のジャズ研出身だったザ・スクエア(現・T-SQUARE)とはデビューしてから知り合うことになるのでこの当時は面識さえもなかった。また、ともに「EastWest'77」に出場して決勝大会まで進出したサザンオールスターズとはプロ志向どうしであったから合同でライブを行ったり、一緒にイベント出演をするなど共演の機会が多かったバンドの一つだった。
デビュー
「EastWest'77」出場後、都内近郊で月間最大18本に渡るライブを精力的に行っていき、来るべきプロデビューに向けてバンドを固めていった。並行して数々のレコード会社からの引き合いに応じたのだが、カシオペアが持つ音楽性(ロックをベースとしたオリジナル曲によるインスト)は、“いまの市場には新し過ぎて売れない”との判断が下され、何のレコード会社からも大幅な変更を要望されたことで、レコードデビューが難航していく。この状況に苦慮したカシオペアは打開策として、当時の彼らに就いていたマネージャーの提案により、「自ら出資してセルフプロデュースによるスタジオ収録のレコード音源を作り、何かのレコード会社にその原盤権を買ってもらって商品化してもらう」という自主レーベル作品に近いことを考えて実行に移した。製作費に100万円以上掛けたものの、レコーディング経験者がいなかったことで稚拙な出来となってしまったレコード音源は、カシオペアに興味を示していたはずの各レコード会社の態度を余計に硬化させるだけのものなってしまう。袋小路に入ってしまったカシオペアへ最後に手を差し伸べたのは当時新興だったアルファ・レコードであった。「作っていたレコード音源を買い取るが、それは使わない」「音楽性は尊重するが、アルファ・レコードが指定したプロデューサーと専門スタッフの下で新たにレコーディングする」、カシオペアはアルファ・レコードから出された条件を受け入れて、ようやくレコードデビューに漕ぎ着けた。
1979年5月、日本におけるフュージョン・ブームの真っ直中、アルバム『CASIOPEA』でレコードデビューする。当時のメンバーは「EastWest'77」に出場したときからの野呂一生(ギター)、向谷実 (キーボード)、櫻井哲夫(ベース)、佐々木隆(ドラム)。4人の演奏に加えてオーバー・ダビングながら、ブレッカー・ブラザーズ(ランディ・ブレッカー、マイケル・ブレッカー)、デイヴィッド・サンボーンらがゲスト参加した豪華な作りとなった。そのデビューアルバム『CASIOPEA』の帯には超絶技巧でアクロバティックな演奏スタイルを示した「スリル、スピード、スーパー・テクニック」というキャッチコピーが与えられた。このキャッチコピーは以後カシオペアの音楽性を表す代名詞となる。1979年のデビュー時、アマチュア時代からの活動拠点であった都内近郊では一定の認知度と人気は既にあったが、全国的に名が知られ始めたのは、同年の日本航空のニューヨーク・キャンペーンのCM曲としてデビューアルバム後に発表したシングル「I LOVE NEW YORK」が使用されてから。また、その「I LOVE NEW YORK」を収録した2枚目のアルバム『SUPER FLIGHT』がデビューアルバム以上の売り上げもみせるなどして活動は好調の兆しを見せていたのだが、ドラムの佐々木が音楽的な方向性の違いにより脱退することが決まってしまった[注 5]。
神保彰の加入
1980年、ドラムを神保彰にメンバーチェンジ。前年の秋、慶應義塾大学在学中の櫻井がゼミ仲間から同大学のジャズのビッグバンド、慶應義塾大学ライトミュージックソサエティのライブに就職活動で出演できないベーシストの代役を依頼され受諾。そこで出会ったのがそのビッグバンドに在籍していた神保であった。櫻井は神保に卓越した才能を見いだし、彼を佐々木の脱退が決定事項となっていたカシオペアの次期ドラマーに推薦し、カシオペアはメンバーとスタッフ総出で神保を口説き落としてメンバーに迎えた。当時大学3年生だった神保はカシオペアに誘われるまではプロ経験はなく、また将来プロになる志向もなかった。しかし、ビッグバンドの活動とは別に、敬愛するアメリカのドラマーのスティーブ・ガッドとハービー・メイソンが参加した洋楽フュージョンのレコードを片っ端から聴いていてコピー演奏していたり、小編成のコンボスタイルのフュージョンへの憧れや造詣は深く、それらと近似したカシオペアの音楽性にやりたいことを見いだしてプロになることを決断した。
黄金期
神保が加入してすぐにライブ・レコーディングされた3枚目のアルバム『THUNDER LIVE』は、音楽誌『ADLiB』の連載企画「ブラインド・フォールド・テスト」[注 6]で賞賛され続けたことで話題を呼び、人気が一気に高まっていく。以後、アルバムを出すごとに売り上げを伸ばし続け、ライブの規模と動員もそれにともなって拡張していった。
所属レコード会社、アルファレコードが海外進出に意欲的で、神保加入後のデビュー3年目の1981年にアメリカ、翌1982年にイギリス向けのレコードをそれぞれ製作して海外進出を果たす。レコード発売ばかりでなく、以降はヨーロッパ、南米、香港、東南アジアなどでライブも行うようになる。
メディア展開も音楽誌やFM番組出演にとどまらず、1984年には音楽を担当したのと併せてメンバー全員で出演もしたマクセルのビデオテープのCMがテレビで連日オンエア、それと前後してNHK『レッツゴーヤング』、フジテレビ『夜のヒットスタジオDX』などのテレビの人気音楽番組への出演も果たしていき、音楽ファンばかりではない一般への知名度も広く浸透していった。また、1984年のヨーロッパツアーのイギリス公演がNHKのニュース番組『ニュースセンター9時』に取材されて、日本での活動と変わらぬ盛況ぶりが伝えられた。このようにカシオペアは国内外で確固たる人気を築いていった。
1986年、ヨーロッパ圏や東南アジア圏の海外での成功を勢いにして、アルバム『SUN SUN』で再度[注 7]の全米進出を試みる。国内同様に市場規模が限られているジャズ・フュージョンではなく、市場規模が一番大きいポップ・ミュージックのカテゴリーに合うように、プロデューサーにデヴィッド・ボウイのサポートギタリストとして知られるカルロス・アロマーを迎えて、ボーカル曲の導入やその当時の最先端の流行を追った音楽性に変化させたものの、結局は適わなかった。これで諦めず、翌1987年の次作のスタジオ・アルバム『PLATINUM』の音楽性も『SUN SUN』のそれをさらに押し進めたもので通した。しかし、1980年代後半に入ってからのこのアメリカ市場を見据えた音楽性の変化は、国内の活動にも響いて人気が下降していってしまう。
メンバー分裂
1988年までのカシオペアは年間2枚のアルバム制作と国内外で年間100本前後に渡るライブをこなしていた。常にカシオペアはグループとしての活動を優先させたため、メンバーのソロ活動は制限されることになり、他のバンドとの掛け持ちもなく、他アーティストのライブやレコーディングへのゲスト参加も少なかった。1985年と1986年の当初から期間が定められていたソロ活動も各自ソロアルバムを制作するだけに留まった。
1989年、それまで在籍していたレコード会社との契約が終わって、次のレコード会社への移籍途中であった。そのため、カシオペアはグループとしての基幹活動であるアルバム制作と全国ツアーを休止し、メンバーのソロ活動に充てていた。しかし、その中で櫻井と神保はメンバーを集めてボーカル音楽のバンド、シャンバラを結成。アルバムを制作したほか、ライブ活動も行い始める。野呂一生と向谷実は「シャンバラの今後の継続的な活動は、直に迫るカシオペアの活動再開に支障を与える」として二人にシャンバラの活動停止を要請。これに対し、櫻井と神保はカシオペアの活動と両立できると主張。野呂・向谷と櫻井・神保の両陣営は最後まで平行線を辿って物別れになり、櫻井と神保はこの年をもってカシオペアを脱退してしまう。翌年、櫻井と神保はシャンバラ以外にフュージョン・シーンで活動するジンサクというユニットを結成していく。また、メンバー分裂問題以外にも所属事務所の移籍問題も抱えるなど、この年はカシオペアにとって苦難が重なった。
第2期(1990年から2006年まで)
鳴瀬喜博の加入
櫻井と神保の脱退を受けて、1990年にセッション・ベーシストの御大“ナルチョ”こと鳴瀬喜博とジャズ・ドラマーの日山正明を迎える。鳴瀬はカシオペアがアマチュア時代に参加した「EastWest'77」で審査員をして以来の、日山はカシオペアのデビュー前後に活動していたフュージョン・バンド、クロス・ウィンドの元メンバーでそれ以来の付き合いと、音楽性や技能とともに継続して活動できるように知古の者を選んだ。メンバーチェンジをしたカシオペアは、すぐさまアルバム『THE PARTY』と同タイトルの映像作品を制作し、同時発売するとともにライブ活動も再開した。翌1991年、アルバム『FULL COLORS』を制作して発売。前作同様にインスト曲のみで構成される作品であり、1980年代後半に変貌させていた音楽性を軌道修正していた。
1992年に病気療養を理由に日山が脱退し、その後任に当時22歳の熊谷徳明が加入した。熊谷は海外での音楽留学から帰国後、国内での活動を見いだすためにアマチュア時代に敬愛していたカシオペアの所属事務所にプロフィールとデモテープを送っていたのが採用のきっかけとなった。
神保彰のサポート復帰
メンバーが流動的になりながらも活動状況は安定していて、作品は毎年定期的に作り続けられた。海外でのライブも各国で引き続き敢行されて1996年には日本人のアーティストとして韓国公演を行って話題となる。しかし、この年限りで熊谷が脱退、1997年からカシオペアは、野呂・向谷・鳴瀬の3人による名義のユニットとなる。一時は菅沼孝三がサポートに入るなどしていたが、神保がサポートメンバーとして復帰する[注 8]。1997年中はアルバム『LIGHT AND SHADOWS』のロス・レコーディングに帯同していなかったり、参加名義も“スペシャル・サポート”だったのが、翌1998年からは全てのスケジュールに帯同するようになり、参加名義も“スペシャル”が取れたレギュラーな“サポート”となる。デビュー20周年を迎えた1999年には日比谷野外音楽堂で歴代メンバー(小池、櫻井、熊谷の3人)を迎えた記念コンサートを開催した。2003年には同じく日本を代表するフュージョン・バンドであるT-SQUAREとのジョイント・コンサートや、2004年からはその神保とT-SQUAREの元メンバーである則竹裕之が結成したツインドラムのユニット、Synchronized DNAをサポートに入れた5人体制で活動を行っていたりもした。
活動減少
1990年代前半は第1期のようにグループとしての活動を優先させたが、1990年代後半に入ると、向谷が鉄道趣味関連ビジネスの手始めとなるトレインシミュレーターの制作、鳴瀬が野獣王国のメンバーとして活動開始、野呂も七年ぶりのソロアルバム『TOP SECRET』の制作や青木智仁、斉藤ノブらの誘いを受けてのセッション活動に参加しだすようになって各々のソロ活動が活発化する。その分、カシオペアのライブの本数は年々減少していった。
2000年代に入ると、向谷の鉄道趣味関連ビジネスは以前よりも拡大、鳴瀬は野獣王国に加え、リーダープロジェクトのURUGOME(1980年代後半に鳴瀬がリーダーとなって活動していた「うるさくてゴメンねBAND」のリユニオン)も活動開始、野呂がリーダープロジェクトでのアルバム制作と定期的なライブ活動をするなど、さらにソロ活動の比重が高まっていった。この頃の年間のライブ数は多くて10本程度だった。
2006年8月1日、野呂の「カシオペアとしての一切の活動を休止したい」との意向により、レコーディングおよびライブなどの活動をすべて休止すると発表した。
活動休止期(2006年から2012年まで)
活動休止期間中のメンバーの音楽活動はそれぞれリーダープロジェクトを立ち上げてのソロ活動が中心となっていた。この期間中は一度たりともリユニオンによるライブやレコーディングは成されなかったが、メンバー各々で集まっての音楽活動や、参加するライブでカシオペアの曲は演奏されていた。
活動休止したその年から、鳴瀬は野獣王国やURUGOMEに加えて、カシオペアに提供した自作曲を中心に披露するためのユニット、Narucho-ICE(ナルチョイス)を結成して定期的にライブ活動開始。ベース、ギター、ドラム、ホーン×3の6人編成に、初期は向谷がゲスト扱いで毎回参加し、向谷の自作曲や野呂が書いた代表曲も演奏された。野呂も2009年と2012年の合計2回参加して「ASAYAKE」や「FIGHT MAN」等の自作曲にして代表曲を演奏したが、野呂と向谷の両人がそろって参加する事はなかった。
向谷は鉄道事業の音楽制作に於いて起用しているミュージシャンらで構成したユニット、向谷実とメロディーズを結成した[注 9]。キーボード、ギター、ベース、ドラム、サックス、バイオリンの6人編成で、ライブ活動では、メロディーズで制作した曲、過去の向谷のリーダープロジェクトで制作した曲に加えて、カシオペアでの自作曲も積極的に取り上げていた。カシオペアのメンバーとの共演としては、先述のNarucho-ICEへのゲスト参加、向谷実×中西圭三プロジェクトではレコーディングに鳴瀬と神保を起用、さらに神保とは実験的な音楽制作も行っていた。
2008年、野呂はカシオペアとそれまでのソロプロジェクトを分け隔てなく考えた、野呂曰く「自分がやりたい事をとことん追求」したアルバム『INNER TIMES』を制作し、レコーディングメンバーを制作中にバンド化させて、ソロ名義ではなくそのバンド名のISSEI NORO INSPIRITS(イッセイノロ・インスピリッツ)名義で発表する。ISSEI NORO INSPIRITSは、ギター、キーボード×2、ベース、ドラムの5人編成で、神保彰も参加している。この活動休止期間中に4枚のアルバム、1枚の映像作品を制作し、少ない本数ながらも定期的にライブも行っていた。ただし、作品においてもライブにおいてもカシオペアの曲は取り上げられる事はなかった[注 10]。なお、野呂と鳴瀬は共に東京音楽大学の講師で毎週のように顔を合わせていて、授業の一環で一緒に生徒の制作活動をサポートする事もあった。
サポートメンバーだった神保は、演奏者が自分独りだけによるライブ、ワンマンオーケストラにおいて、休止後からカシオペアで自作した曲と「ASAYAKE」などの代表曲を取り上げて演奏していた。また、リーダーグループで2009年に出演した東京JAZZでは自作曲にして代表曲である「MID-MANHATTAN」を、そのオリジナルが収録された1982年のアルバム『FOUR BY FOUR』にも参加したギタリスト、リー・リトナーとセッションした事から話題となった。
第3期(2012年から2022年まで)
2012年4月20日、結成35周年を迎えるに当たって、向谷の脱退及び、その後任として大高清美(キーボード)の加入、6年振りの活動再開がオフィシャルサイトにて発表された。また、活動再開後の名義をCASIOPEA 3rdとした。再開後の最初のライブは同年9月の東京JAZZとその前日に単独出演で行われた前夜祭イベント(トーク&リハーサルライブ)。その後、国内ツアーに先行してインドネシアのジャカルタでの単独公演、そして10月に東名阪の国内単独公演ツアーが行われた。ライブは活動休止前の既存の曲の演奏が中心ではあったが、CASIOPEA 3rdとして活動再開表明後に野呂が書き下ろした「ARROW OF TIME」がレパートリーに加わっていた。
CASIOPEA 3rdの活動はメンバー各々のソロ活動と併せて行われていた。野呂は活動休止中に作ったリーダープロジェクトであるISSEI NORO INSPIRITSを継続し、鳴瀬も活動再開の発表直前に新たなリーダープロジェクトであるザ・チョッパーズ・レボリューションを結成している。大高は加入以前の参加プロジェクトやリーダープロジェクトを継続し、神保も休止前と同じく全活動に帯同するものの引き続きサポートメンバーという立場で参加することになった。それ故、年間の活動はスケジュール的にごく限られた期間の中で行われていくようになる。
2013年11月に、CASIOPEA 3rd初であり、8年ぶりのオリジナルアルバム『TA・MA・TE・BOX』発表。同月、前年に続いてインドネシアのジャカルタにて単独公演を、12月に国内でアルバム発売記念ライブツアーを行った。2015年4月にアルバム『A・SO・BO』、2016年7月にアルバム『I・BU・KI』、2017年7月にセルフ・セレクション・ベスト・アルバム 『VESTIGE』を発表。同年12月、カシオペア結成40周年と野呂一生のソロプロジェクトISSEI NORO INSPIRITS 結成10周年記念として、EX THEATER ROPPONGIにて双バンドの共演ライブを開催。2018年7月に新作アルバム『A・KA・RI』を発表。
2019年3月、神保の還暦記念スペシャルライブに出演。このライブでは神保がかつて櫻井哲夫と組んでいたJIMSAKUの21年ぶりとなるライブも行われる[注 11]。なお、JIMSAKUはこれを機に活動を再開させていくことになる。7月にアルバム『PANSPERMIA』を発表。結果的に、それがCASIOPEA 3rdとして最後のオリジナル曲収録のスタジオ録音アルバムとなってしまう。
2020年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行は、日本国内でも観客を入れてのライブコンサート活動をする者たちにとって多大な支障を来たし、CASIOPEA 3rdもその例外ではなかった。春に予定していた東名阪クラブツアーの東京・大阪公演を10月の開催へと延期するに至った。それと前後して9月にはレギュラーサポートドラマーの神保ではなく、川口千里を入れたライブ「CASIOPEA 3+1000」を行う[注 12]。2021年10月、元メンバーの向谷、櫻井、神保によるフュージョン・バンド、かつしかトリオが結成されてライブツアーが行われ、カシオペアで各自が作曲したものを中心に、野呂を含めた4人による共作にして代表曲の「HALLE」なども演奏された。
2022年2月、サポートメンバーとして活動に帯同していた神保が卒業[注 13]することを発表し、同年4月から5月に行われたビルボードライブでの国内ツアー『A.J.FINAL』が行われ、5月28日のビルボードライブ大阪公演を最後に卒業した[4]。
第4期(2022年より)
7月に後任の新ドラマー・今井義頼が正式なメンバーで加入して、それを機に、2012年より使用してきた第3期の活動名・CASIOPEA 3rdから第4期の活動名・CASIOPEA-P4に変更して活動することが公式サイトで告知された[5]。今井とカシオペアの公式Twitterから、同月よりこのメンバーでレコーディングを行っていることが伝えられている[6]。
注釈
- ^ 本人および所属のカシオペアの公式ページのプロフィールにおいて生年非公表。
- ^ CASIOPEA with Synchronized DNAの共作名義。
- ^ 後に櫻井哲夫のソロアルバムをプロデュースしている。
- ^ 脱退後の小池は、杉真理&レッドストライプスのメンバーなどを経て、ビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)に就職。所属のビートたけしや岩崎宏美の担当ディレクターとなる。後年、ビクター小池の名でビートたけし出演番組に度々出るようになる。
- ^ 2枚目のアルバム『SUPER FLIGHT』制作後に話し合いが持たれて決まるが、すぐに脱退したわけではなく、その後に決まっていたライブツアーなどのスケジュールには佐々木は参加していた。カシオペアはこの間に次のドラマーである神保彰と巡り逢った[3]。
- ^ 来日した海外のフュージョン系の著名ミュージシャンに、日本のフュージョン系アーティストの新譜レコードをアーティスト名やプロフィールなど目隠し状態で伏せて聴かせて、音だけの判断で評論してもらう。
- ^ 一度目は1981年に当時の所属レコード会社のアルファ・レコードがアメリカに現地法人のレコード会社のアルファ・アメリカを作ってそこから最初にアルバム『EYES OF THE MIND』と続けてアルバム『MAKE UP CITY』(日本では先に制作されて発売されたが、アメリカでは『EYES OF THE MIND』の後からとなった)を発売したこと。二枚ともチャートに載るくらいのセールス記録を上げて一応の成功を見せたが、翌1982年にアルファ・アメリカが資金難に陥り、アメリカ市場から撤退を余儀なくされたことで、継続したレコードリリースが出来なくなり、カシオペアのアメリカ進出もそのまま自然消滅してしまった。
- ^ 1997年当時、神保は櫻井哲夫との双頭ユニットのジンサクがまだ活動中だった。しかし、以前に比べて互いの個人活動が多くなっていた時期で、翌1998年2月にジンサクは解散した。
- ^ 2013年からは一部メンバーを入れ替えた「向谷実とチャージ&バックス」名義となって同様の活動をしている。
- ^ 2009年に櫻井哲夫と互いにデビュー30周年を記念した双頭ユニット、ペガサスでは互いのカシオペアの自作曲を幾つも演奏していた。
- ^ CASIOPEA 3rd時代唯一の櫻井との共演にもなった。
- ^ 翌年と翌々年にも開催。
- ^ 活動から離脱
- ^ ちなみにT-SQUAREの所属レコード会社でもある。また、2002年には「Village DSD Mastering Series」として、ヴィレッジからアルファレコード時代のCDがT-SQUAREと共に同社からリマスター再発されていた。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u レーベルは、初版でリリースされたものに従う。
- ^ 公式では、ベストアルバムとして位置付けられている。
- ^ CASIOPEA + Synchronized DNA名義。
出典
- ^ 野呂出演番組『GUITAR STORIES 情熱のスーパーギタリスト列伝』(TwellV、2011年放送)で野呂自らが発言
- ^ CASIOPEA 3rd公式YouTubeチャンネル「鳴瀬喜博インタビュー20131018_1」より
- ^ 向谷実『フュージョン狂時代 ワールドツアー雑記帳』ヤマハミュージックメディア、1995年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-636-20931-1。
- ^ [1]
- ^ “カシオペアが第4期となるCASIOPEA-P4の始動を発表!ドラムは今井義頼!!”. リズム&ドラムマガジン. (2022年7月1日) 2022年7月23日閲覧。
- ^ https://twitter.com/Casiopea_staff/status/1550483228968222720
- ^ 『CASIOPEA vs THE SQUARE』内「SPECIAL TALK」。
- ^ “Nonstop Casiopea - Fusion Radio をTuneInで聴く”. TuneIn. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Home” (jp). ncradio. 2022年5月9日閲覧。
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