ウェセックス王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/27 09:22 UTC 版)
概説
ウェセックス王国はイングランドのアングロサクソン王朝のひとつ。その系統はイングランド王国にまで続いている。名前の由来は「ウェスト・サクソン(West Saxon、西サクソン王国)」であり、イングランドの南部および南西部を支配下に置いていた。ウェセックス王国は6世紀に成立、イングランドとしての国の形成ができる9世紀まで続き、またその後も「ウェセックス」の名は伯爵領として1016年から1066年まで一時的に使われた。
トーマス・ハーディの旅行記にしばしばその名が見られているものの、以来ウェセックスという名は行政の地名として記載はされてはいない。しかしウェセックス伯の称号は1999年にエリザベス2世の三男エドワードの登場により復活している。
現在でもウェセックスの名をイングランドに残す事を望む者が存在している。
起源
アングロサクソン年代記の記述と矛盾点の指摘
アングロサクソン年代記(以下「年代記」と記す)によれば、ウェセックス王国はチェルディッチ(セルディック)王とキュンリッチ(シンリック)王により設立された。彼らはゲウィサエという名の氏族の首長であり、ハンプシャーに上陸、ワイト島を含む周辺地域を支配下に置いたと言われている。
しかし、年代記の記述には裏付けが乏しく、矛盾点も多い。すなわち考古学的な証拠としてはハンプシャーだけでなくテムズ川上流の渓谷地帯およびコッツウォルズ周辺にもアンクロサクソン人の定住跡が見受けられ、彼らの存在した6世紀後半から7世紀にかけてのウェセックスの中心地はむしろ後世の中心地よりも北部によりかかっていた事が指摘されている。
また8世紀後半の歴史学者ベーダは、ワイト島はサクソン人ではなく、ジュート人が上陸したところであり、またジュート人がハンプシャーの沿岸区域を占拠したとの記述を残しており、この地域はウェセックス王国が7世紀になってからようやく支配下に置いた場所に過ぎなかった事を記述している。
よってアングロサクソン年代記の記述は8世紀、9世紀に書かれた、当時の王国の勢力図に合う形で過去の起源の伝承を記載した結果の産物であるという可能性が高い。
この2人の王の名の出所は年代記の「西サクソン王国系譜目録」に記載されている。年代記は短い系譜を数多く年代別に記載されているが、前述のように矛盾も多く全ての整合性を統一できていないでいる。最近のイギリスの史学者デヴィッド・ダンヴィル(en:David Dumville)の分析によると、年代記の西サクソン王の名前に取り繕ったような形で王の名が複数まとまった箇所に存在しており-またその王の名は他の学者が史的証拠として取り上げもしていたが-実証性に足るものではない事が指摘されている。
チェルディッチ、キュンリッチによる統治
年代記では495年にチェルディッチ王がブリテン島に上陸した事になっているが、前述の歴史学者ダンヴィルはそれが538年頃だったと修正、後世の系譜を全ての血統をチェルディッチに帰したいがために矛盾した部分を書き加えられ、全てを解析する事は困難になっている事を指摘している。
いずれにせよチェルディッチの治世は16年におよび、後にキュンリッチに王位が移ったのは554年頃としている。キュンリッチはチェルディッチの息子とされているが、別の説では孫となっており、よく分かってはいない。孫とする場合、クレオダ(Creoda)という人物がキュンリッチの父親としてチェルディッチとの系譜の間をつないでいる。
キュンリッチの治世は581年頃チェウリン (セウリン、チェアウリン、ケアウリン、ツェアウリンとも、正確な発音では『チェアゥリン』と思われる。en:Ceawlin of Wessex)という人物に受け継がれた。恐らくは息子であろうと考えられている。
チェウリン
チェウリンの治世はそれまでの王よりはその記述に伝承性が薄く、多少の信頼された裏づけがあるものと思われるが、年代記では在位は560年から592年、ダンヴィルによって修正されたものとは異なっている。
チェウリンの治世にウェセックス王国はグロスターシャーのチルターン(en:Chiltern)、サマーセットを征圧する。この攻勢は、バドン山の戦い(en:Battle of Mons Badonicus)でケルト系ブリトン人に敗れて以来の膠着状態以来のものであり、アングロサクソン勢力の拡大が再びこの時期より始まったと考えられている。
またチェウリンはベーダの著作で記されている七人の王の一人としてその名を残しており、彼の記述によると南イングランドにおける「インペリウムを保持していた人物」と伝えられている。この事は後世に記されたアングロサクソン年代記も記しており、そこではチェウリンを「ブレトワルダ(Bretwalda、アングロサクソン社会における諸王の中の王の意)」、「ブリテンの支配者」という表現で表されているのが繰り返されている。
チェオル、チェオルウルフ、キュネイルス
チェウリンは甥であるチェオル(正確な発音では『チェォル』)により退位させられ翌年死去、チェオルが王位に就いた。しかし6年後(恐らくは594年頃)、王位は兄弟であるチェオルウルフに取って代わられ、さらに617年ごろに王位はキュネイルスに代わられた。
系譜学者はキュネイルスの出自に関して一致した著述を残してはおらず、残る史書では彼の父の名も一致していない。
キリスト教の普及とマーシア王国の台頭
キュネイルス、チェンワルフ
ウェセックスの歴史の著述に信憑性のある年月が残されるのはキュネイルスの治世になってからである。630年代の後期、恐らくは640年に聖ビリヌス(en:Saint Birinus)がキュネイルスに洗礼を施しウェセックス王国に司教区を設け、ドルチェスター・オン・テムズ(en:Dorchester-on-Thames)を本拠とした。
この洗礼の出来事は西サクソン王国の中では最初の改宗の例となったが、かと言ってこれが先鞭で改宗が続いたわけではなく、642年頃に次のチェンワルフは異教徒のまま王位を受け継いだ。しかし数年後、彼が洗礼を受けるとウェセックス王国はキリスト教の王国としての基盤ができあがるようになった。洗礼の際に彼に洗礼名を名づけた人物はノーサンブリア王オスワルド(en:Oswald of Northumbria)であり、この洗礼は以前よりウェセックス王国を圧迫していたマーシア王ペンダに対する盟約の意味合いも含まれていた可能性もある事が指摘されている。
マーシア王国による征服
アングル人のマーシア王国の勢力拡大に伴い、攻撃を受けていたサクソン人のウェセックス王国はテムズ川、エイヴォン川以北を侵食されつつあり、このような動きにウェセックス王国は南部領土の建て直しを計る事となる。チェンワルフはマーシア王ペンダの娘と婚姻を結んだが、やがてそれが離縁となると再びマーシア王国が侵略、彼は3年ほど国を棄てて亡命する事となる。この時期は定かではないが、恐らくは640年代後半ないし650年代前半と考えられている。この時期ウェセックス王国はマーシア王国の支配下に入る事となった。
チェンワルフはイースト・アングリアに身を寄せて、この地でキリスト教に改宗をした。そして彼がウェセックスに戻リ王に復位すると、今度はペンダの後継者ウルフヘレの攻撃を受けてしまう。しかしウェセックス王国はブリトン人を討伐して領土をサマーセットまで拡大する事に成功する。そしてウィンチェスターに司教区を築いた。また、その直後に古来の司教区だったドルチェスターがマーシア王国の圧力に押され放棄される事となり、こうしてウィンチェスターはウェセックス王国の事実上の首都として今後発展を遂げる事となる。
チェルディッチの末裔による短期在位
673年にチェンワルフが死去すると妻サクスブルフが一年王位に就いた。そして次にチェウリンの兄弟の血筋となるエシュウィネが就く。このようにウェセックスの王位はチェルディッチにつながる男系子孫の流派から流派へと移譲される事がしばしばあった。このような政権交代は本当に起きていた事なのか、王権の移譲をチェルディッチからの血統という正当性を後付で誇示する必要性から生じたものなのかは不明である。
いずれにせよ、エシュウィネの治世は2年間続き、676年には王位はチェンワルフの家系へと戻り、チェントウィネが王となった。彼はブリトン人と戦った事は分かっているが、詳しい内容は消失してしまっている。
チェントウィネの後、遠縁の縁者と思われ、またチェウリンの子孫と名乗るキャドワラが王位に就いた。キャドワラの治世は2年間だったが、サセックス、ケント、ワイト島に進攻、ケントを征圧した後にすぐに、またサセックスも続いて独立を許してしまうが、ウェセックス領を大幅に拡大した。彼は688年に退位、ローマへ巡礼の旅に出かけた。そこでキャドワラはローマ教皇から洗礼を受け、すぐに死去したと言われる。
イネによる長期統治
キャドワラの後はイネが継いだ。イネもチェウリンを通じてチェルディッチの子孫と自称していたが、また遠縁の血統ではあった。イネの統治は長く38年に及んだ。現存している古英語の法典は、ケント王国のものを除けば、イネの治世のものが最古である。また彼はシャーボーンに司教区を築き、セルウッド(en:Selwood Forest)以西の領土を支配下に置いた。晩年、先王キャドワラに習い、ローマへ巡礼。チェルディッチの末裔を名乗る王位は幾人かの王たちに移譲されたが、系譜学として関連は定かでないものとなっている。
8世紀にウェセックス王国の勢いは北方のマーシア王国に劣後する事となり、幾度か西サクソン王国の王はマーシア王の支配下に入る事となった。とは言うもののウェセックス王国は、マーシア王国が小国に対して振舞うような高圧的な支配統治は免れてはいた。この時期にウェセックス王国は西方ドゥムノニアを吸収しデヴォンを支配下に押さえる事に成功する。マーシア王国が現在のグロスターシャー、オックスフォードシャーに相当するウェセックス王国の北部旧領へ進攻した結果、テムズ川とエイヴォン川が境界となり、中心地がハンプシャー、ウィルトシャー、バークシャー、ドーセット、そしてサマーセットの各州へと区分けされた。このようなウェセックス王国に見られた州制度は後のイングランド王国の地方行政単位となり、イギリスの行政制度の礎となるが、8世紀中ごろには成立していた。
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