ウェセックス王国 ウェセックスの覇権

ウェセックス王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/27 09:22 UTC 版)

ウェセックスの覇権

エグバートによる台頭

全アングル人の王(Rex Anglorum)を名乗るマーシア王オファ(在位:757年 - 796年)により追放されフランク王国カール大帝の所に身を寄せていたイネの兄弟インゲルドの末裔と称していたエグバードの登場により、ウェセックス王位の継承過程が変わり、今までのチェルディッチの末裔と名乗る複数の王族から一人が王位に登る形式が終わり、代わって単独の王家からの継承へと変化した。825年にマーシア王国のベオルンウルフエランダンの戦い英語版(en:Ellandun)で撃破、サセックス、ケント、エセックスの支配権をマーシア王国から奪うと同時にイースト・アングリアをマーシア王国の支配から離脱、独立を支援した。829年にエグバードはマーシア王国を征圧、王ウィイラフ(en:Wiglaf of Mercia)を追放させ、ノーサンブリア王国も支配権を確立させる。そしてエグバートはブレトワルダとなりブリテン島の諸王の王として君臨した。この君臨の時期は短く、830年にウィイラフは帰還しマーシア王国は再び独立してしまうが、南西イングランドに拡大したウェセックス王国の領土は侵食される事はなかった。

バイキングの急襲

エグバートの治世の晩年、ウェセックス王国はデーン人のヴァイキングの攻撃を受け、835年以降たびたびさらされるようになる。851年には350もの軍船を乗せた大軍がテムズ川河口に現れる。そしてマーシア王国のベオルンウルフを敗北させると、デーン人の大軍がウェセックス王国に進出、しかしアクレアの戦い(en:Battle of Aclea)でエグバートの息子エゼルウルフに敗れ、四散した。こうして15年デーン人の侵略を免れる事ができたが、ウェセックスへの急襲は依然として続いた。

855年から856年にかけてエゼルウルフはローマへ巡礼に出かけ、その間長子エゼルバルド(en:Æthelbald of Wessex)が父の不在の間に王位を簒奪する。エセルウルフが帰還すると流血を避けるために息子と領土を分割する事に同意、自らはウェセックス東部の新たな領土を統治し、息子は古来の中心地を治めた。エセルウルフの後領土は子供たちに交互に受け継がれ、エセルバルドの他にエセルベルト(en:Ethelbert of Wessex)が東部の父の領土を受け継ぎ、そしてエゼルバルドの死去によりウェセックス王国を再統一させ、王位はエゼルレッド(en:Ethelred of Wessex)に引き継がれた。しかしエゼルレッドも死去。年長の兄弟が子を残さず絶え、エゼルレッドの息子は王位に就くには幼すぎたので、王位は末子アルフレッドに受け継がれた。後にアルフレッド大王と呼ばれる人物である。

アルフレッド大王の統治

865年、再びデーン人が来襲し、デーン人はノーサンブリア、イースト・アングリアを征服する。871年にはウェセックス王国も侵略にさらされるようになり、一時期エゼルレッドとアルフレッドの兄弟による敗北で停滞するものの、度重なる戦線で兵馬を失ったアルフレッドはデーン人に対し金銭をもって撤退させるようになる。

デーン人はマーシア王国を服属させ、ノーサンブリアにも勢力を伸ばしたが、876年再びウェセックスにやってきた。これに対してアルフレッドは迅速に対応、877年に小競り合いで撤退させる事に成功する。デーン人の一派はそのままマーシアへ撤退、残存する残りのデーン人は877年初頭の冬に再びウェセックス王国に進攻してきた。冬季の進軍にアルフレッドは驚き、国土の大半を侵略され、アルフレッドはサマーセットの湿地へと避難するが、数ヵ月後に軍を徴収、エサンドゥーンの戦い英語版古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン英語版付近)でデーン人を粉砕する。この勝利により878年ウェドモーアの和議が締結され、デーン人はイースト・アングリア、ウェセックスからデーンロウへ最終的に撤退した。

そののちの数年、アルフレッドは内政の再編に取り掛かる。彼は軍船を建造する、軍隊を2交代制にして常時臨戦態勢にさせる、増強した砦(ブルフ、Burh)を国内隈なく築き上げるなどウェセックス王国の内政、防衛体制において大幅な改革に着手した。このような体制の内容は「Burghal Hidage」という10世紀の書物に記録として残されており、それによるとウェセックス王国に33の駐屯地があり、安全な場所から馬に一日乗った距離以内にあったと言う。この改革により890年代に再来したデーン人の来襲を最小の犠牲で追い払う事ができた。

またアルフレッドは司法組織にも改革を加え、大学と教育機関の復興を手助けした。イングランド中またはヨーロッパの各地から学者を自らの宮廷に召還し、彼らにラテン語の書物を古英語に翻訳させた。仕事のほとんどは個人作業でさせたが、アングロサクソン年代記の執筆は集団作業で行われ、アルフレッドはその指揮を執った。このような文化作業の結果、ウェセックス王国の政治的な優位性が上昇し、この時代の西サクソン方言が古英語の標準語となり、その後のアングロサクソン社会の標準となった。

デーン人の侵略はノーサンブリアとイースト・アングリア地域を荒廃させ、北東部にデーン人の定住によりマーシアは二分、北東部はデーン人の定住地となり、南西部はチェオルウルフ(en:Ceolwulf II of Mercia)の支配となったが、チェオルウルフ自身デーン人の傀儡に過ぎなかった。チェオルウルフが死去するとアルフレッドは正式なマーシア王国の後継者となったが、それは他の王の推挙によるものでなく、エアルドルマン(en:Ealdorman、現在のEarl、伯爵に相当)のエゼルレッド(en:Earl Aethelred of Mercia)の要請によるものだった。また彼はアルフレッドの支配下に入る事に異議はなく、アルフレッドの娘エゼルフレダ(en:Ethelfleda)を娶っていた。このマーシアがどのような形でアルフレッドの支配下に入ったのか移譲に関しての過程はよく分かってはいないが、これによりアルフレッドはデーン人の来襲で生き残った唯一のイングランド在住の王となった。







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