経済観念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:14 UTC 版)
岩城之徳は、父・一禎とともに啄木は「金銭に対するルーズな性格」を持っていたと述べている。 1909年頃に作成されたとみられる自筆の借金記録が函館市中央図書館啄木文庫に残されており、1905年から約4年間の借金(実際に借りた金額だけではなく、ツケ払いや支払延滞といった内容を含む)は総額1372円50銭(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)とある。 この借金の記録は、宮崎郁雨(合計額として最多の150円の貸し主)によって発表されたが、発表の後には啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というものが加わるようになった。郁雨は啄木の才能を愛しながらも、その生活力の欠如と金銭感覚には批判的であった。啄木は釧路時代に、競合紙の記者3人を退社させるのに彼らの給与前借清算などのため50円が必要と郁雨に書き送り、それに応じて郁雨は50円を二度に分けて送金した。しかしその内容は虚偽で郁雨からの送金は花街通いなどに費消されたとみられている。 1908年の上京後、東京朝日新聞入社までは金田一京助、入社後(ほぼ同時期に金田一は結婚して疎遠となった)義絶するまでは宮崎郁雨が事実上啄木の生活を支えていた。金田一京助は、啄木から頼まれる前に資金を援助することが何度もあった。しかし、あるとき啄木を頼ってきた同郷の青年二人に手元の金を恵んだ、という話を得意げに聞かされてその出所が自分であることを認識するよう苦言を呈し、以後関係が微妙となる。その後、金田一は結婚(啄木が知り合いの古物商から紹介を受けた林静江を薦められた)するが、自宅が近かったことから啄木はたびたび節子に寸借願を持たせて金田一の元に通わせ、金田一は静江にそれに従うよう命じていた。だが、静江はついに「自分と啄木のどちらが大切なのか」と音を上げ、金田一は啄木と距離を置くようになる。1912年3月30日、読売新聞に啄木重態の報道(土岐哀果の筆)が出たのを見た金田一は、花見を取りやめて啄木を訪問し自著の原稿料の半額10円(実際にはその日は出版社から入手できず、手元の金を「稿料分」として用立てた)を手渡した。
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