W125レコルトワーゲン(1938年)とローゼマイヤーの死
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「W125レコルトワーゲン(1938年)とローゼマイヤーの死」の解説
W125レコルトワーゲン(1938年) アウトウニオン・タイプC・ストリームライナー 冬のドイツは路面が凍結することがあるため、それまで速度記録への挑戦はシーズン後の秋の決められた週に行うようNSKKによって定められていたが、ダイムラー・ベンツは当局の上層部に働きかけて1938年1月末に速度記録への挑戦を行うという予定を承認させた。この日程は当時は2月か3月にベルリンで開催されていたドイツ最大の自動車展示会であるベルリンモーターショー(IAA)の開催直前であったことから、重要イベントの前に記録を更新されてしまうという事態を避けたかったアウトウニオンも参加を表明することになった。 メルセデスチームは前年のアウトウニオンの記録を破るべく風洞試験を重ねてボディの改良を入念に行い、車体先端のインテークを縮小し、2つの小さな穴のみとした点が前年型(3ヶ月前)のボディとの大きな違いとなった。インテークを小さくすればエンジンは冷却が不充分な状態に晒されるが、速度記録車の走行は短い時間で終わることから、氷を詰めた冷却装置を設置することで冷却の補助を行うというアイデアが用いられた。対するアウトウニオンは、参加を急遽決定したため確実に記録更新できるほどの改良を施す時間はなく、現状の車両を空力の面で手直しすることで30 km/hを稼ぐというプランを立てた。 1938年1月28日午前8時頃、前回と同じフランクフルト~ダルムシュタット間で、改良されたW125レコルトワーゲンをカラツィオラが走らせ、432.69 km/hという新記録を樹立した。同日の昼前にアウトウニオンのローゼマイヤーも走り出し、往路でカラツィオラに迫る速度を記録したが、記録更新に挑んだ復路の走行中に風にあおられたとみられる事故により彼のアウトウニオンは沿道の木々に打ち付けられ、ローゼマイヤーは帰らぬ人となった。以降、アウトウニオンは速度記録車の開発から手を引き、結果的に、メルセデス・ベンツとアウトウニオンの間で繰り広げられた速度記録をめぐる争いも、この事故によって終息した。 この時にW125レコルトワーゲンが樹立した432.69 km/hという記録は公道上で記録された最高速度記録としてその後も長く残り、2017年に更新されるまで80年近くに渡って破られることはなかった。
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