SL保存運行構想の頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 11:30 UTC 版)
「京阪100年号事故」の記事における「SL保存運行構想の頓挫」の解説
事故前年の1975年(昭和50年)12月をもって国鉄は蒸気機関車による営業運転を終了し、この年の3月に北海道で入換用に残っていた蒸気機関車が退役してからは、梅小路蒸気機関車館の動態保存機だけが国鉄の保有する現役蒸気機関車となっていた。 梅小路蒸気機関車館の開館当時の構想では、線路が本線につながっている利点を生かし、同館を拠点として保存機による列車を定期的に運行することになっていた。『鉄道ピクトリアル』1972年10月号に掲載された、日本国有鉄道運輸局車務課による「蒸気機関車動態保存計画の全貌」では、詳細は検討中としながらも「東海道・山陰・福知山・奈良・草津」の各線を使用した5、6のモデルコースに、週末などに臨時列車か団体臨時列車を運行する構想が紹介されている。 開館当初はC62形による「SL白鷺号」などが運行されたが、その後は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}国鉄の労使問題の深刻化などを受け[要出典]、一時中断状態になっていた。 そして前述のとおり営業用蒸気機関車の全廃を迎え、保存運行を再開すべく実施されたのが「京阪100年号」であった。この運行に先立ち、同年3月には山陰本線の丹波口駅付近の高架化完成に際してC11形(64号機)を使用した記念列車が運行されており、それに続くものであった。山陰本線の時は平日の午前中で走行距離も短く、この「京阪100年号」こそが本格的な保存運行の試金石になると目されていた。 しかし、人身事故が起きたことで構想は事実上頓挫した。イベント列車で死者が出たことの衝撃は大きく、鉄道趣味雑誌『鉄道ジャーナル』はこの事故に関する特集記事を組み、編集長の竹島紀元は、記念列車を煽った一般マスコミの責任に言及しながら「日本の社会がおとな(原文傍点あり)の行動の取れる日がくるまで、本誌では'SL動態保存'の提言を一切ひかえることにする」と宣言したほどであった。一方、同じ鉄道趣味雑誌である『鉄道ファン』では列車の運行自体は採り上げたものの、事件については読者投稿1件を掲載するのみにとどまった。 「SLブーム」も参照
※この「SL保存運行構想の頓挫」の解説は、「京阪100年号事故」の解説の一部です。
「SL保存運行構想の頓挫」を含む「京阪100年号事故」の記事については、「京阪100年号事故」の概要を参照ください。
- SL保存運行構想の頓挫のページへのリンク