NPB選手時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:04 UTC 版)
即戦力として期待されたプロ1年目の1993年シーズンは開幕から一軍入りしたが4月25日の対ヤクルト戦では押し出しで初敗戦となるサヨナラ負けを喫した。5月28日には二軍へ降格し、イースタン・リーグでも打ち込まれたが一軍に昇格すると8月11日の対広島戦で初セーブを挙げている。8月14日には一軍初勝利も達成した。 1994年シーズンは5月21日の対広島戦でプロ初先発を経験し、13試合に先発。翌1995年シーズンは先発・リリーフでフル回転し、契約更改ではほぼ倍増の年俸3,600万円(推定)となっている。1996年シーズンは盛田幸妃が先発転向したこともあり、本格的にセットアッパーに専念。7月26日から28日までの対広島3連戦では3試合全てに登板し、同一カード3連戦3連勝を記録している。チーム全体で風疹が流行ってしまい先発投手が足らず、数試合先発登板したがシーズンでは自己最多の46試合に登板し、自己最多の9勝を挙げた。1997年シーズンは先発転向を予定されていたが右ひじを故障し、前半戦はほぼ治療に専念した。一軍復帰後は中継ぎとして36試合に登板し、被本塁打は0本を記録、チームは7年ぶりのAクラス入りを果たし、契約更改では現状維持の5,200万円(推定)となっている。 1998年シーズンは佐々木主浩へつなぐセットアッパーとして40試合に登板。8月28日の対広島戦では7点リードから1点差まで追い上げられた7回表無死二、三塁のピンチで登板し、4番の金本知憲から始まる打順を三者連続三振に仕留め、優勝へのターニングポイントを乗り切った。同年のシーズンは島田直也に次ぐリーグ3位のリリーフポイント15.00をはじめ、5勝2敗1S、防御率2.61の成績でリーグ優勝に貢献した。西武ライオンズとの日本シリーズでは第5戦に2番手として登板し、鈴木健とルディ・ペンバートンに本塁打を打たれている。同年のシーズンオフには800万円増の年俸6,000万円と出来高払い2,000万円(いずれも推定)で3年契約を結んだ。 1999年シーズンはキャンプで右ひじの痛みを訴え、全治2ヶ月と診断され、2回目の手術を受けた。以降は完全に回復せず、一軍登板のなかった2001年シーズンオフに戦力外通告を受け、現役を引退。その場で球団に申し出て、翌年から打撃投手となることが決まった。
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