JSPC最後の年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:26 UTC 版)
「日産・VRH35」の記事における「JSPC最後の年」の解説
1992年はJSPCが最後の年ということもあり、どこまで予選用エンジンの馬力を上げられるかという挑戦が行われた。それまでの予選では1,000馬力程度の出力で行っていたところを、推定1,200馬力以上(ベンチ測定において計りきれない馬力であった)の出力を出して予選を行った。このエンジンを用いて、旧富士スピードウェイにて予選を行った際、超ハイグリップな予選用タイヤであるQタイヤを履いた状態でも最終コーナーで4速と5速でもホイルスピンを起こし、ブラックマークをつけていたそうだ[要出典]。後年に長谷見昌弘は雑誌のインタビューで「あのパワーはF1以上。こんな加速、速度を経験したのは世界中で僕と星野の2人だけだろう」と語った。(JSPCは2人のドライバーがコンビを組んで行われるレースだが、予選のタイムアタックはそのコンビの内のエースドライバーが担当していた。日産はエースドライバーを23号車星野、24号車を長谷見としていた。) 星野も、このエンジンのあまりのパワーに「僕はこのエンジンですぐにはタイムアタックには入れなかった」と語っている。(あまりのパワーに星野、長谷見の2人とも、10~20分程の心の準備時間が必要だった。) 1992年仕様の予選エンジンを搭載した日産・R92CPが、旧富士スピードウェイにおいてスピードガン測定で速度400km/h以上を記録しており、その事実は林・水野ら複数の関係者が認めている。 また、当時ニスモの監督を務めていた水野和敏によれば、ドライバビリティを重視し(主に富士のBコーナーの立ち上がりでドライバーが安心してアクセルを踏めるようにすることが目的だったという)、決勝でのエンジン出力は発表当初の900馬力より少ない状態にし、1991年仕様で約600馬力、1992年仕様で約720馬力程度に抑えられていたとのことである。当時ドライバーだった星野一義は、レース後のインタビューなどで「僕らのエンジンは本当は5,000ccくらいあるんじゃないか」などと評しており、非常に扱いやすいエンジンだったことが伺える。
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