AEGをシュナイダーに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 08:33 UTC 版)
「コメルツ銀行」の記事における「AEGをシュナイダーに」の解説
第二次世界大戦中、コメルツ銀行はドイツ軍の占領地域に新しく支店を開設していった。資本参加を通じて勢力を拡大したドレスナー銀行とは対照をなし、コメルツの小規模な前衛支店は終戦が近づくにつれて閉鎖されていった。1945年に敗戦するとコメルツの支店が東ドイツに接収された。前節の戦間期ビジネスを考えれば当然であるが、占領軍はコメルツ銀行の戦犯性を軽視した。しばらく西ドイツ政府は連合軍の経済力集中排除政策に形だけ反対していた。1948年、ナイ委員会に貢献したアルジャー・ヒスが証言のみを証拠に赤狩りの犠牲となり、マハトマ・ガンディーも暗殺され、IGファルベン関係者が釈放された。通貨改革と朝鮮戦争は西ドイツの労働運動を刺激した。1952年、コメルツは財閥解体の対象となった。ドレスナーもドイツ銀行も形だけ事業分割がなされた。コンラート・アデナウアーは、少なくとも三年間は再統合させないと約束した。1954年NATO参加国が西欧同盟に参加してくると、AEGに見られるよう、西ドイツは逆コースへ急展開してインドなどへ輸出を伸ばした。1955年、アデナウアー宣言が期限切れとなり三大銀行の組織計画が浮上した。コメルツは1958年7月1日に復活して、本店をデュッセルドルフに置いた。コメルツは1962年までに戦前の支店を回復していった。ユーロ債市場が台頭しようとしていた1967年、ICBL(International Commercial Bank in London)の創設に参加した。共同出資者の筆頭はメロン系のアーヴィング(Irving Trust)であり、他にはシカゴの国法銀行(First National Bank of Chicago, バンク・ワンを経て現JPモルガン・チェース)、ウェストミンスター(Westminster Bank)、香港上海銀行が参加した。1969年、ルクセンブルクに最大の海外拠点としてコメルツバンク・インターナショナルを設立した。1967年に出してあったニューヨークの代理店は1971年リニューアルした。ニクソン・ショックがマルクを暴騰させた1970年代に、コメルツは世界中へ支店を開き、会社の中枢を段階的にフランクフルトへ移管していった。コメルツは工業にも参加した。1975年1月、GHH(現MAN)の主要株主となり、これをきっかけにアリアンツとのコネで保険事業も手がけるようになった。1975年末、コメルツはドレスナーやバイエルンLB(Bayerische Landesbank)および他五行からなるシンジケートに参加し、ドイツ銀行が保有するダイムラー・ベンツ株25%を皆で買収した。1980年、コメルツはカウフホフ(Kaufhof)株32%をUBSとメトロに売却した。カウフホフは2015年ガレリアというブランド名でハドソン湾会社に売却された。
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