5年戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 01:49 UTC 版)
「ティムールの征服戦争」の記事における「5年戦役」の解説
帰国したティムールは1392年7月にペルシアの再征服戦争を開始する。最初にマーザンダラーンに進軍し、カスピ海沿岸のマーハーナ・サル要塞を攻略して同地を制圧する。翌1393年にはティムールは再びムザッファル朝を攻略すべく、ムハンマド・スルタンをスルターニーヤに派遣させ、自身はフーゼスターンを目指した。その頃のムザッファル朝では、トゥルスタのシャー・マンスールが庇護を求めてきたザイヌル・アービディンを捕えて監禁し、シーラーズ、イスファハン、アブルクーフを制圧する等、その勢いは侮り難いものになっていたのである。西方から攻め入ったティムールはトゥルスタ、フジスタンを攻略し、シーラーズ西北の要塞ガルエ・セフィードに至った。この要塞は高い岩山に築かれて断崖絶壁を誇っていた。ティムールは決死隊を使って攻略し、幽閉されていたザイヌル・アービディンを助け出した。要塞攻略後にティムールは3万騎を率いてシーラーズに迫る。これに対してシャー・マンスールは鉄騎兵4千を率いて迎え撃つ。戦いは乱戦を極め、ティムールとシャー・マンスールの一騎討ちが行われる程であったが、後者が戦死することで勝敗は喫した。その後、地方の君主達が相次いで帰順し、ムザッファル朝は滅亡したのである。 ウマル・シャイフに統治を委ねた後にティムールはバグダードのジャライル朝のスルタン・アフマドを突くべくクルディスタンから攻める作戦を採った。この策は成功し、スルタン・アフマドはエジプトのマムルーク朝の許へ逃亡した。8月30日にティムールはバグダードに入場し、ここで2か月程滞在したが、その間にイラク南部を掌握している。11月にバグダードを出発してクルディスタンに攻め入ったが、ここでウマル・シャイフが戦死した。翌1394年には黒羊朝やグルジア等を討ち、かくしてティムールは旧フレグ・ウルス領を制圧したのである。 その頃、トクタミシュは復讐の機を伺い、マムルーク朝、オスマン帝国、黒羊朝と言ったイスラム諸国、更にはキリスト教国であるルーシ諸侯やリトアニア大公国も抱き込んで反ティムール同盟を結成せんとしていた。これに対してティムールはイスラム諸国に和平を請うべく使者を派遣したが、成果は芳しくなく、それどころかマムルーク朝のバルクークは使者を殺害して、更にはスルタン・アフマドを支援してバグダードを奪取する構えであった。北のコーカサスではリトアニア大公ヴィータウタスの支援を受けて勢力を盛り返したトクタミシュが不気味な姿を現わしていた。 ティムールは包囲網を打ち砕くために、最初に長年の敵トクタミシュと決着をつけるべく1395年2月末に出陣し、4月半ばにコーカサス北側のテレク河にてトクタミシュと激突した。戦いはティムールの勝利に終わり、トクタミシュは落ち延びた。ティムールはこれを追う形で、ルーシ諸侯、タナ、アストラハンを荒らし回り、止めとしてサライを徹底的に破壊・略奪したのである。ジョチ・ウルスは実質的にはこの時点で息の根を止められたと言っても過言ではない[要ページ番号]。零落したトクタミシュは乞食同然の身となり、後に死ぬ直前のティムールと和解するものの、1406年に殺害されるのである。1396年にティムールはペルシアに戻ったが、バグダードを攻めることなくサマルカンドに帰還したのであった。
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