4世紀〜5世紀:内戦と蛮族侵攻とは? わかりやすく解説

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4世紀〜5世紀:内戦と蛮族侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 01:13 UTC 版)

ビザンツ帝国海軍」の記事における「4世紀〜5世紀:内戦と蛮族侵攻」の解説

ビザンツ艦隊は、ビザンツ帝国自身ローマ帝国継承国家であることから分かるように、ローマ海軍システム継承している。紀元前31年ローマ帝国にて発生したアクティウムの海戦以降ローマ帝国では大規模な海戦海戦を伴う大戦争起きなかったためにローマ艦隊徐々に小規模化し警察的な役割物資輸送任務などに従事することになったそれゆえローマ軍艦も小規模な艦船へと移行していった。時は流れ4世紀初頭ローマ帝国では内戦発生しており、324年コンスタンティヌス1世リキニウスの間でヘレスポントスの海戦が行われたのだが、この戦い動員され多数艦隊大半急拵え艦船東地中海の諸港湾都市から接収したであったとされる4世紀から5世紀にかけて続いた内戦中、ローマ海軍が再び拡充されことはなく、兵員輸送などにしか用いられなかった 。西地中海で依然として相当数海軍雇われいたものの、ローマによる完全な地中海支配とまではいかず、429年から442年にかけてヴァンダル人北アフリカ乱入したことを受け、それは崩れ去った428年、北アフリカ・カルタゴにて有能なヴァンダル人の王ガイセリックヴァンダル王国建国した。そして彼はその直後にイタリア・ギリシア沿岸部略奪して回り455年にはなんとローマ襲撃したガイセリックその後20年間、度重なるローマの反撃物ともせず、イタリア・ギリシアを荒らしまわった西ローマ帝国無力であり、海軍徐々に減少しており、この頃にはほとんど存在しない等しい状態となっていた、が、東ローマ帝国はまだ海軍力しっかりと有しており、東地中海資源支配権押さえることができていた。そして448年ビザンツ艦隊西方海軍をもって侵攻したが、シチリア島までしか進軍できなかった。そして460年西ローマ帝国派遣した艦隊ヴァンダル王国スペイン南部カルタヘナ迎撃打ち崩したその後468年遂に東ローマ帝国将軍バシリスクスローマ艦隊1,113隻に加え10,000人もの大軍預けヴァンダル人討伐派遣したしかしながらバシリスクス率い東ローマ艦隊壊滅しヴァンダル人火船作戦により600隻もの艦船喪失した。またこの遠征の失敗により失った130,000ポンドの金・700,000ポンドの銀は帝国国庫を脅かすこととなった 。この失敗により、ローマガイセリック王と講和せざるを得なくなりローマヴァンダル人その後講和した。しかし477年ガイセリック王が死去したのち、ヴァンダル王国衰退し始めローマ帝国脅威ではなくなった。

※この「4世紀〜5世紀:内戦と蛮族侵攻」の解説は、「ビザンツ帝国海軍」の解説の一部です。
「4世紀〜5世紀:内戦と蛮族侵攻」を含む「ビザンツ帝国海軍」の記事については、「ビザンツ帝国海軍」の概要を参照ください。

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