2008年 - 2009年: 第二次サナデル政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 03:36 UTC 版)
「クロアチア民主同盟」の記事における「2008年 - 2009年: 第二次サナデル政権」の解説
しかし、第一次サナデル政権はその任期満了まで政権を維持することができた。2007年の総選挙は同年の11月に予定されており、クロアチア民主同盟はクロアチア社会民主党(SDP)を中心とする左翼政党連合と、クロアチア権利党やグラヴァシュのスラヴォニア・バラニャ・クロアチア民主会議(HDSSB)などの極右政党の左右両側から挑戦を受けていた。 しかし、対立政党に対するサナデルの精力的で徹底した対抗や、社会民主党自身の失態もあり、また極右の投票者は彼らの敵視する共産主義の後継者とみなしている社会民主党の政権を阻止するためにクロアチア民主同盟支持にまわったこともあり、民主同盟は選挙に勝利することができた。 社会民主党は、ディアスポラ票がなければ第一党となっていたとして敗北を認めるのを拒んでいたが、選挙後初の議会は2008年1月11日に開かれた。クロアチア民主同盟は、クロアチア農民党とクロアチア社会自由党からなる「黄緑連合」、そしてクロアチア年金者党、少数民族政党も閣内に招き、イーヴォ・サナデルを首班とする第二次サナデル政権を発足させた。 連立政権は、選挙前よりも多くの議席数を得ていたが、良好であったクロアチアの経済状態の悪化や、長期化するクロアチア民主同盟の政権に対するクロアチア世論の離反に苦しめられることとなった。 また、クロアチアと国境問題をかかえるスロベニアが、クロアチアの欧州連合加盟に際して必要となる協定の受け入れ審査を否定しつづけたことも大きな難点となった。この問題が長期化すれば、クロアチアの欧州連合加盟の道は断たれてしまいかねないが、これが政権の支持に悪影響を及ぼすことはなかった。これに関しては、クロアチアのほとんどの政党や国民に共通する、国益に反する事柄に関しては犠牲を払ってでも断固としてその受け入れを拒否する、クロアチアの愛国主義や強固な民族自立の意識を前提とすれば通常の反応であった。 しかし、2009年5月に行われた地方選挙では、事前予想に反して、またディアスポラ票のない地方選挙であってもなお、クロアチア民主同盟は勢力を伸ばした。こうした中、2009年7月1日に突如としてサナデルが辞任と政界からの引退を表明したことは、大きな驚きであった。サナデルは、ヤドランカ・コソルを後継に指名し、コソルは7月4日に大統領スティエパン・メシッチによって首相候補に指名された。コソルは7月6日に議会で新首相として承認され、クロアチアで初の女性指導者となった。 サナデルは辞任表明の中で、かつて防衛大臣と厚生大臣を務めたアンドリヤ・ヘブラング(Andrija Hebrang)を次の大統領選挙の候補に指名し、サナデルが次期大統領を目指すのではないかとする予想を否定した。アンドリヤ・ヘブラングは腫瘍摘出の手術とその後の療養を終えた7月末にこの指名を受け入れた。
※この「2008年 - 2009年: 第二次サナデル政権」の解説は、「クロアチア民主同盟」の解説の一部です。
「2008年 - 2009年: 第二次サナデル政権」を含む「クロアチア民主同盟」の記事については、「クロアチア民主同盟」の概要を参照ください。
- 2008年 - 2009年: 第二次サナデル政権のページへのリンク