2003-2004年:デンジャラスリィ・イン・ラヴ
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「ビヨンセ」の記事における「2003-2004年:デンジャラスリィ・イン・ラヴ」の解説
2003年6月、レコーディングに1年半かけたソロデビュー・アルバム『デンジャラスリィ・イン・ラヴ』 (Dangerously in Love) をリリースした。ジェイ・Zをフィーチャリングしたファースト・シングル「クレイジー・イン・ラブ」 (Crazy In Love) は、8週連続ビルボード・ホット100シングルチャートで1位を記録し、この夏最大のヒットとなった。 1stアルバム『デンジャラスリー・イン・ラヴ』はアメリカ、イギリス、カナダでポップアルバムチャート(ビルボード200)とR&Bアルバムチャートでトップを記録。アメリカで400万枚、全世界では1,100万枚以上のセールスを記録。シングルとアルバムが同時にアメリカとイギリスでポップチャート1位を記録するのは1983年以来、女性では初の功績となった。ビヨンセは、2003年最も商業的に成功を収める女性R&B歌手になるまで成長した。2004年には、アリシア・キーズに押されて女性で2位に転落したものの、アリシアもビヨンセを超えるほどのセールスを記録することはなかった。 夏の終わりにかけて、ダンスホールレゲエ歌手のショーン・ポールをフィーチャーした2枚目のシングル「ベイビー・ボーイ」(Baby Boy) もヒットチャートに浮上し、2003年の大ヒット曲の1つになった。秋はラジオでもヘヴィー・ローテーションされ、「クレイジー・イン・ラブ」より1週長い9週連続1位を記録した。この曲はビヨンセ曰く「アラビック・レゲエ」で、衣装もアラブ調で披露されることがある。「ベイビー・ボーイ」の成功からまもなく、3枚目のシングル「ミー、マイセルフ・アンド・アイ」(Me, Myself and I)、続いて翌年には、4枚目のシングル「ノーティ・ガール」(Naughty Girl) をリリース。両曲は、ビルボード・ホット100でそれぞれ最高4位と最高3位を記録した。 5枚目のシングルは、ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイの楽曲を元にした、ルーサー・ヴァンドロスとのデュエット「ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー」(The Closer I Get to You) で、ヴァンドロスがフラックのパートを歌い、ビヨンセはハサウェイのパートを歌っている。この楽曲はヴァンドロスのアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』(Dance With My Father) にも収録され、第46回グラミー賞ベストR&Bパフォーマンス賞のDuo or Group with Vocals部門を共有した。この他にも、2004年の授賞式でビヨンセは、ソロ活動でベスト女性R&Bボーカルパフォーマンス賞、ベストコンテンポラリーR&Bアルバム賞を含む5部門のグラミー賞を受賞した。 このアルバムの大成功により、2003年11月に初のソロツアー「デンジャラスリィ・イン・ラブ・ツアー」(Dangerously in Love Tour) を行い、イギリス、アイルランド、オランダの3か国を廻った。11月10日のロンドンのウェンブリー・アリーナでのコンサートの模様は、翌年2004年のライブアルバム『ライヴ・アット・ウェンブリー』(Live at Wembley) に収録された。 2004年の第38回スーパーボウルでは、アメリカ国歌「星条旗」を熱唱した。プレーショウの出演者の中で唯一の黒人女性のビヨンセはABCのインタビューで、アメリカの黒人女性はいまだに白人女性以上に努力しないと成功できないと語り、メイクやスタイリストなどステージに必要なものは全て自分で用意しなければならなかったこと、リハーサル回数が他のアーティストよりも多く、自分の実力が何かを証明しなければならない気持ちになったが、細かいことはその場で口を挟まなかったことなどを語った。この問題はのちの2008年に再燃して、ある雑誌がビヨンセの写真を露骨に加工し、肌の色を明るい小麦色にしたことで、論争が巻き起こった。
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