1992年入院以降
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1992年11月にB型肝炎を発症し、長期入院を余儀なくされた。公式発表は内臓疾患であり、鶴田保子夫人の著書が発行されるまでは公には伏せられていた。鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることは1985年8月の時点で判明しており、当時の主治医によるインターフェロン療法がうまくいかず症状を悪化させたためと、後に保子夫人が著書で述べている。 1993年の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。鶴田自身、その時の様子を「棺桶に片足を入れた状態」と評している。「一昔前なら棺桶に両足を入れていた。つまり、自分は死んでいた」とも発言している。メインイベンターとしての鶴田の価値は無くなったが、馬場は鶴田の給料を下げる事はしなかった。ある日、入院中に読んでいたある雑誌に女子プロゴルファーの桝井映里が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂に非常勤講師ながら大学教員となった。並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。ほとんどの試合は馬場と組んでのファミリー軍団としての出場による、6人タッグマッチであった。 1999年1月31日の馬場の死去直後に引退及び全日本取締役辞任の記者会見をキャピトル東急ホテルで行う。この後に「全盛期に前田日明と戦ってみたかった。藤波君が度々対戦要求を出してきたが、マスコミの前のポーズだけで実際の交渉は一切なかった。僕はそれが大嫌いだった」とコメントしたことも話題になった。後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまい申し訳なかった」と、FAXで謝罪した。 ただし鶴田は、1990年代のある番組の中でファンサービスもあったにせよ「今年の夢は、藤波選手と闘うことです」と発言していた。1987年1月4日、東京スポーツ主催のプロレス大賞授賞式の席上でも「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」とコメントしており、週刊ゴングによる鶴藤長天キャンペーンのきっかけの一つとなっていた。一方で、全日本プロレスが1998年に初めて東京ドーム大会を開催した際の、藤波の参加に向けた発言とその撤回の経緯が、引退時の鶴田の発言と符合している。
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