1988年-1989年
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「BMSスクーデリア・イタリア」の記事における「1988年-1989年」の解説
1988年よりダラーラ社にシャシー製作を依頼し、「スクーデリア・イタリア」の名でF1参戦を開始した。初年度はアレックス・カフィ1台のみのエントリーだった。特に開幕戦はマシンの完成が間に合わず、F3000のマシンにF1に出走可能な最低限の改造を施して出走させた。(但し燃料タンクの容量が少なく、完走は不可能な状態だった) 1989年度はアンドレア・デ・チェザリスを迎え、2カー体制となり当初は予備予選組からの出走だったが、下位集団に埋もれることなく、イタリア系新興チームの中ではミナルディとともに中堅チームの地位を固めた。1989年のカナダGPではチェザリスが3位表彰台を獲得。カフィはモナコGPで4位入賞、アメリカGPで6位入賞と才能が認められ、ポルシェエンジンとのジョイント計画を進めるアロウズ(フットワーク)へ移籍した。
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1988年~1989年
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「ニコラ・ラリーニ」の記事における「1988年~1989年」の解説
1988年より、イタリアの小規模チーム・オゼッラのレギュラーシートを獲得。ターボエンジンを搭載するFA1Lであったが、他チームの自然吸気エンジンよりも非力であり(パワーで100bhp(75kW;101PS)程度劣る)、自然吸気V8エンジン車のライバルチームに後れを取り苦戦が続いたが、ラリーニは第3戦モナコグランプリにて9位でフィニッシュし、初完走。参戦した15戦中これが最高位となり、他の完走は2回。7度のリタイヤに加え、マシンの戦闘力の低さ故5度の予選落ちも喫した。しかし第14戦スペイングランプリの予選では14位というオゼッラのマシンとしては望外の好順位を得る奮闘も見せた。 1989年もオゼッラに残留したが、この年のFA1Mシャシーも戦闘力は低く、完走は第2戦サンマリノグランプリにおける12位のみ。他はリタイヤ7回、失格1回、予備予選落ち8回を喫した。そんな中、第6戦カナダグランプリでは悪天の中で一時3位を走行。また、予選で何度か10位・11位といった上位グリッドに付け、才能の片鱗をうかがわせた。また、サンマリノグランプリで負傷したゲルハルト・ベルガーの代役としてフェラーリから声がかかり、640のテストに参加したが、ベルガーが早い回復を見せ復帰したため、フェラーリからのレース出走はならなかった。 この2年間、F1の傍らItalian Turismoにも参戦。それぞれシーズン2勝・3勝を挙げた。
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1988年~1989年
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「アレックス・カフィ」の記事における「1988年~1989年」の解説
1988年は新規チームのスクーデリア・イタリアに移籍した。16戦中完走7回、リタイヤ7回、予備予選不通過2回で、最高位はポルトガルGPの7位だった。この年も、リタイヤ原因はスピンしたモナコGPと日本GPの2度を除き、マシントラブルに起因するものだった。 1989年はカフィ躍進の年となった。モナコGPでは予選9位から4位に入り初入賞を果たした。アメリカGPでも予選6位から一時2位に浮上する好走を見せたが、このレースでは、序盤のトラブルで周回遅れになっていたチームメイトのアンドレア・デ・チェザリスが、カフィを追い抜いて周回を戻そうとした際に両者が接触した。この接触でカフィは壁に衝突し、リタイヤに終わった。続くカナダGPでは予選8位から6位に入り、シーズン2度目の入賞を記録した。 ハンガリーGPでは予選で3位につけ注目を集めるが、決勝は7位に終わった。この他にも、非力なマシンで何度か8位や9位などの上位グリッドに付け、高い評価を受けた。
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