1979年–1982年:バンド
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「マテリアル (バンド)」の記事における「1979年–1982年:バンド」の解説
その後、バンドは、アルバム『アバウト・タイム』のラズウェルとカルトレリが作曲したインストゥルメンタル曲「Materialism」からマテリアルという名前を取った。彼らのデビュー・レコーディングは、1979年のゴメルスキーのズ―・レコード (Zu Records)からのインストゥルメンタル・ファンクEP『Temporary Music 1』であった。その後、バンドはセルロイド・レコードと契約し、1980年にシングル「Discourse」が発表された。 彼らは1981年のEP『Temporary Music 2』(サックスのドン・デイヴィスが参加した「White Man」を含む)のためにバインホーン、ラズウェル、マーのトリオに戻された。脱退したカルトレリは、後にリラティヴィティ・レコードのA&Rとして働き、メガデス、スティーヴ・ヴァイ、ジョー・サトリアーニをレーベルに連れてきたとされている。 このグループは、ギタリストのソニー・シャーロック、フレッド・フリス、サックス奏者のバイアード・ランカスター、ヘンリー・スレッギル、コルネット奏者のオル・ダラなどを代わる代わるフロントマンに迎え、スリーピース・バンドとしてニューヨークを演奏してまわった。ラズウェルは次のように説明している。「私たちには多くの方向性があり、かなりの数のプロジェクトに参加しています。そして、さまざまな人々をマテリアルに参加させるのが好きなんです。プレーヤーとしての私たちにとってはそれが健康的であり、優れたミュージシャンを新しいオーディエンスに公開する方法でもあったのです。でも私たちは流動的ではありますが、間違いなくバンドなんです。そして、私たちが演奏するものは何でも強いパルスを持っている傾向があるので、私たちはロック・バンドなんだと思います…本当に凄いミュージシャンと演奏することが、私たちの演奏を変えてくれる。だから、私たちは即興でプレーオフします。誰が私たちと演奏しているかによって、音が多少異なる場合がありますが、私にとってはそれが利点なんです」。 マテリアルとしての最初のフル・アルバム『メモリー・サーヴス』はインストゥルメンタルであり、シャーロック、フリス、ダラ、スレッギル、ヴァイオリニストのビリー・バングからの貢献による強力なジャズの傾向が特徴となっていた。 彼らは歌手と仕事をするようになり、その音楽はよりメロディックでファンキーなものになっていった。ギタリストのロバート・クワインをフィーチャーした次のシングル「Ciquiri」(EP『American Songs』に収録)は、ニューヨークのダンスクラブで人気を博した。1981年のシングル「Bustin' Out」は、ダンスチャートの2位まで達するエクステンデッド・クラブ・ミックスとしてリリースされた。「Busting Out」では、ギタリストのロニー・ドレイトンのサポートを受けて、歌手のノナ・ヘンドリックスがフロントに立った。このラインナップでは、クリスティーナとのスプリット・シングルのために「It's a Holiday」もレコーディングしている。 1982年のアルバム『ワン・ダウン』までに、ドラマーのフレッド・マーはバンドを脱退し(彼はその後、スクリッティ・ポリッティの2番目のラインナップでコア・メンバーとなった)、彼らはノナ・ヘンドリックス、B・J・ネルソン、バーナード・ファウラー、ホイットニー・ヒューストン(彼女の最初のリード・シンガーとしてのレコーディングの1つ)を含む多数の歌手を受け入れた。ヒューストンのボーカルは、ヒュー・ホッパーの「Memories」のカバー・バージョンで、サックス奏者のアーチー・シェップによるリード・ブレイクもフィーチャーされていた。「ヴィレッジ・ヴォイス」の評論家ロバート・クリストガウは、彼女の貢献を「今まで聴いた中で最もゴージャスなバラードの1つ」と呼んだ。バンドが向かった方向性を示すものとして、シックのギタリストであるナイル・ロジャースがフリスとドレイトンと一緒に関与したが、おそらくもっと重要なのは、長年のラズウェルの協力者となるニッキー・スコペリティスが最初に登場した作品の1つとなったということだろう。
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