18世紀の聖職者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:24 UTC 版)
「バージニア州の歴史」の記事における「18世紀の聖職者」の解説
1740年代、確立された聖公会には植民地中で約70人の教区聖職者がいた。主教はおらず、実際に植民地に主教を置くことには政治的に激しい反対があった。聖公会の聖職者はロンドン主教に直接監督されていた。各郡裁判所は著名な平信徒からなる地元教区委員に税金を渡した。教区委員は聖職者に200ないし300エーカー (80-120 ha)の教会所属地、1軒の家およびおそらくはいくらかの家畜を供給した。年俸としては16,000ポンド (7,200 kg)のタバコを渡し、結婚式や葬式毎に20シリングを払った。聖職者の生活は貧乏ではなかったが質素なものであり、改善の可能性は少なかった。 補償配置の問題がパーソンズ・コーズと呼ばれる1758年から1764年の紛争に繋がり、教区聖職者のジェイムズ・マイナー・モーリー(マシュー・フォンテーン・モーリーの祖父)牧師とハノーバー郡の若い弁護士パトリック・ヘンリーを対決させることになった。ヘンリーはその最初の著名な裁判で敗訴したが、裁判所はモーリーへの補償として1ペンスを認めただけだった。この訴訟は植民地における国王と教会の大衆に対する権威に勢いをつけた紛争例として歴史家達には広く見られている。6年間にもおよぶ間、バージニアの人々に基本的な問題に顔を突き合わさせることになった。
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