1760年夏の作戦
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「ヴァールブルクの戦い」の記事における「1760年夏の作戦」の解説
1760年の初夏、西部戦線の連合軍総司令官、ブラウンシュヴァイク公フェルディナントはブロイ元帥率いるフランス軍に対し主導権を握ろうと試みた。彼はヘッセン=カッセル方伯領から作戦を発動し、まずザクセンハウゼン(ドイツ語版)近郊に展開していたフランスの2個軍団の合流を阻もうとする。しかしこの初動は不首尾に終わり、1760年7月10日のコルバッハの戦いにおいて連合軍の一軍の敗北に繋がった。全般的には、6,6000名の連合軍に100,000名を超えるフランス軍が対峙するという状況であったが、双方とも続く数日間は何もせずに過ごす。ブロイ元帥が連合軍の後方を脅かそうとして送り込んだフランスの軍団は1760年7月16日、エムスドルフの戦いで消耗した。 この後ブロイ公は指揮下の軍の大部分とともに攻勢に移り、7月27日までに連合軍をフルダ川の後方へ押し返した。連合軍の主力がカッセル近郊に展開する一方、フランス軍の主力はバルホルン(ドイツ語版)に着陣する。ブロイ公は予備軍団をムイ伯に託し、ディーメル川の渡河点を連合軍から奪うべくフォルクマールゼンを経てシュタットベルゲンへ派遣した。ヴァールブルク近郊の渡河点には、フィッシャー(英語版)少将率いる義勇部隊が向かうことになっていた。この重要な渡河点を占領するべくヴァールブルクへ増援が送られる際、ムイ伯もその命令に服す。彼は戦列歩兵28個大隊、民兵2個大隊、31個騎兵中隊並びに1個義勇部隊の合計およそ20,000名を率い7月29日の夕刻、同地に到着した。それから北東のケルベッケ(ドイツ語版)で連合軍の部隊が見つかったため、フランス軍の各連隊はヴァールブルクとオッセンドルフ(ドイツ語版)の間でそちらに向けて着陣した。 ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは、苦境に陥る。ブロイ公のディーメル川への前進に伴い、連合軍はヴェストファーレン公領(英語版)にある自軍の兵站拠点や要塞から遮断される危機を迎えたのである。そうなれば優勢なフランス軍に対しフルダ川とディーメル川の間で不利な状況において戦いを挑むか、前年のようにヴェーザー川を渡り、回避するしかなかった。後者はヘッセン及びヴェストファーレン全土の喪失を意味していた。そのため公はフランス軍より先に到着させるべく、指揮下の各部隊をディーメル川へ進めることを決意する。7月28日、同地のリーベナウ近郊で、ビューロウ少佐率いる「イギリス人軍団」(ドイツ語版)はヴァールブルクへ後退していた「フィッシャー義勇部隊」の前哨と遭遇する。公はこれによってフランス軍の動きを知らされると、フリードリヒ・フォン・シュペルケン大将に14個大隊、14個騎兵中隊と大砲22門を託してヴァールブルクへ差し向けた。この軍団は7月29日、ケルベッケに到着する。翌日にはブラウンシュヴァイク公世子率いる10個大隊、8個騎兵中隊及び大砲4門の増援が到着した。 連合軍の本営ではブラウンシュヴァイク公の秘書で、実質的な参謀総長でもあったフィリップ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)が公に、この状況では迅速な行動が必要であることを説いていた。現状ではムイ伯の軍団が増援を得た場合、ディーメル川で公世子の軍が打ち破られる恐れがあったのである。フィリップ・フォン・ヴェストファーレンは主力とともにディーメル川へ急行し、そこでムイ伯を破るよう進言した。キールマンスエッグ伯(ドイツ語版)の後衛部隊だけがカッセルを守り、必要ならそこから撤収することとされた。ムイ伯の軍団が破られてこそ、一時的に放棄されたヘッセンを再び占領できるのである。これを受けて、公は即座に7月30日夕刻の出発を下令した。
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