1760年夏の作戦とは? わかりやすく解説

1760年夏の作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 14:40 UTC 版)

ヴァールブルクの戦い」の記事における「1760年夏の作戦」の解説

1760年初夏西部戦線連合軍総司令官ブラウンシュヴァイク公フェルディナントブロイ元帥率いフランス軍対し主導権握ろう試みた。彼はヘッセン=カッセル方伯領から作戦発動し、まずザクセンハウゼンドイツ語版近郊展開していたフランスの2個軍団合流阻もうとする。しかしこの初動不首尾に終わり1760年7月10日コルバッハの戦いにおいて連合軍一軍敗北繋がった全般的には、6,6000名の連合軍100,000名を超えるフランス軍対峙するという状況であったが、双方とも続く数日間は何もせずに過ごす。ブロイ元帥連合軍後方脅かそうとして送り込んだフランス軍団1760年7月16日エムスドルフの戦い消耗したこの後ブロイ公指揮下の軍の大部分とともに攻勢移り7月27日までに連合軍フルダ川後方押し返した。連合軍主力カッセル近郊展開する一方フランス軍主力はバルホルン(ドイツ語版)に着陣する。ブロイ公予備軍団をムイ伯に託し、ディーメル川の渡河点を連合軍から奪うべくフォルクマールゼン経てシュタットベルゲン派遣したヴァールブルク近郊渡河点には、フィッシャー英語版少将率い義勇部隊が向かうことになっていた。この重要な渡河点を占領するべくヴァールブルク増援送られる際、ムイ伯もその命令服す。彼は戦列歩兵28大隊民兵2個大隊31騎兵中隊並びに1個義勇部隊合計およそ20,000名を率い7月29日夕刻同地到着した。それから北東のケルベッケ(ドイツ語版)で連合軍部隊見つかったため、フランス軍の各連隊ヴァールブルクとオッセンドルフ(ドイツ語版)の間でそちらに向けて着陣した。 ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは、苦境陥るブロイ公のディーメル川への前進に伴い連合軍ヴェストファーレン公領英語版)にある自軍兵站拠点要塞から遮断される危機迎えたのであるそうなれば優勢なフランス軍対しフルダ川とディーメル川の間で不利な状況において戦い挑むか、前年のようにヴェーザー川渡り回避するしかなかった。後者ヘッセン及びヴェストファーレン全土喪失意味していた。そのため公はフランス軍より先に到着させるべく、指揮下の各部隊をディーメル川へ進めることを決意する7月28日同地リーベナウ近郊で、ビューロウ少佐率いる「イギリス人軍団」(ドイツ語版)はヴァールブルク後退していた「フィッシャー義勇部隊」の前哨遭遇する。公はこれによってフランス軍動き知らされると、フリードリヒ・フォン・シュペルケン大将に14大隊14騎兵中隊大砲22門を託してヴァールブルク差し向けた。この軍団7月29日、ケルベッケに到着する翌日にはブラウンシュヴァイク公世子率い10大隊、8個騎兵中隊及び大砲4門の増援到着した連合軍本営ではブラウンシュヴァイク公秘書で、実質的な参謀総長でもあったフィリップ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)が公に、この状況では迅速な行動が必要であることを説いていた。現状ではムイ伯の軍団増援得た場合、ディーメル川で公世子の軍が打ち破られる恐れがあったのである。フィリップ・フォン・ヴェストファーレンは主力とともにディーメル川へ急行し、そこでムイ伯を破るよう進言した。キールマンスエッグ伯(ドイツ語版)の後衛部隊だけがカッセル守り必要ならそこから撤収することとされた。ムイ伯の軍団破られてこそ、一時的に放棄されヘッセンを再び占領できるのである。これを受けて、公は即座に7月30日夕刻出発下令した。

※この「1760年夏の作戦」の解説は、「ヴァールブルクの戦い」の解説の一部です。
「1760年夏の作戦」を含む「ヴァールブルクの戦い」の記事については、「ヴァールブルクの戦い」の概要を参照ください。

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