1762年クーデターへの関与
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「アレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ」の記事における「1762年クーデターへの関与」の解説
オルロフは兄グリゴリーとともに1762年の宮廷クーデター(ロシア語版)に関与、皇帝ピョートル3世を廃位してその妻エカチェリーナ2世を女帝に即位させた。クーデターの最中、オルロフはペテルゴフ宮殿(英語版)で寝室にいるエカチェリーナを見つけ、彼女に「夫人、あなたが統治するときが来ました」と宣告した。オルロフは馬車で彼女をサンクトペテルブルクに連れていき、近衛連隊はそこで彼女に忠誠を誓った。ピョートル3世は逮捕されロプシャ(英語版)に投獄され、オルロフが看守となった。ピョートル3世は同年7月17日にそこで死去したが、オルロフがエカチェリーナ2世の命令か独断でピョートル3世を殺害したと広く疑われている。例えば、エドワード・ラジンスキーの著書によると、オルロフはピョートル3世に毒入りのワインを与えたが、血管が焼けるように感じたためピョートル3世はもう一杯飲むことを拒否した。オルロフたちは武力でピョートル3世に飲ませようとしたが、ピョートル3世が必死に抵抗したため失敗に終わり、またピョートル3世に傷をつけることも回避したかったため、結局オルロフたちはピョートル3世を窒息死させた。ピョートル3世の死後、オルロフはエカチェリーナ2世に手紙を書き、ピョートル3世が酔って看守の1人フョードル・バリャチンスキー(ロシア語版)とけんかしたときに死亡したと述べ、責任を持った。この記述が事実かどうかは広く疑われ、公式ではピョートル3世が出血を伴う疝痛で死亡したと発表された。
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