1763年の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 15:54 UTC 版)
「第一次セバーヨス遠征」の記事における「1763年の遠征」の解説
セバーヨスはサクラメントを保持したまま、1763年春に東へ軍を進め、今日のチュイ(英語版)の近くにあり守備軍が400人しかいなかったサン・テレサ要塞(英語版)を攻撃、4月19日に降伏させた。その数日後、これも守備軍30人と手薄なサン・ミゲル要塞(英語版)を占領した。 4月、セバーヨスはさらに「サン・ペドロの州」と呼ばれる領土(現ブラジル領リオグランデ・ド・スル州)を征服した。ここでもポルトガル軍の守備は手薄で、正規軍と民兵を足して計1,000人しかいなかった。中でもサン・ジョゼ・ド・ノルティ(英語版)と首都のリオ・グランデ(英語版)は放棄され、無抵抗で占領された。ここでセバーヨスの元に和約締結の報せが届いた。 しかし、リオグランデ・ド・スルでポルトガル領に残った小さな領土(リオ・パルド(英語版)とヴィアマオン(英語版))を奪取しようとした試みはスペインが1763年1月1日のサンタバーバラの戦いで敗北したことで失敗に終わった。この戦闘ではポルトガルの竜騎兵230人がミシオネス・オリエンタレース(英語版)から増援にきたスペイン軍のスペイン人500人とインディアン2,000人に奇襲攻撃して、大砲7門、牛9,000頭と馬5,000頭を鹵獲した。
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