1回目の冬の時代・クイズ王ブーム(1983年 - 1993年)
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1983年12月、関東学生クイズ連盟初代会長・神谷昌孝の発案によりクイズ大会「Man of the Year」第1回が開催された。この大会が日本で最初のオープン大会とする見方も存在する。 1980年代に活躍したクイズプレイヤーによれば、この頃の多くのクイズ愛好者は「テレビクイズ番組で活躍すること」に意識を向けており、アマチュアクイズ大会は、「テレビクイズ番組の合間に行うレクリエーション的なおまけの存在」であると捉えていた人が多かったという。クイズ番組についても、今までの番組の形式とは異なり、1980年代、『なるほど!ザ・ワールド』に代表される「映像クイズ」と呼ばれる海外情報型クイズへと移行していったため、視聴者参加型クイズ番組が激減した。クイズ・プレイヤーの界隈では、この時代は「冬の時代」と呼ばれている。 1989年に、クイズ番組『史上最強のクイズ王決定戦』が開始する。この番組を皮切りに、1990年代前半から強い人だけを戦わせようとする「クイズ王番組」の時代へと移行していった。また、このときからクイズプレイヤーとして活躍していた人がクイズの作り手の側に回っていき、問題が一般視聴者向けからクイズ愛好家向けに変わり、数文字で正解を導き出されるようになるなどの超人的な演出をされるようになっていった。その超人的な演出をするために、当時のクイズ王番組は、クイズ愛好家の間で理解できる事項を問うようになっていき、今日で言われる「ベタ問」のように、問題が固定化していった。また、クイズ愛好家ができるだけ早く答えられるように、確定ポイントを問題文の最初に置くようになり、クイズの問題文が一定の形式を持つようになっていった。 『史上最強のクイズ王決定戦』が1995年に終了後、クイズ番組はアンチクイズ王時代へと変わっていき、「平成教育委員会」や「クイズ!ヘキサゴン」などのタレント解答型クイズ番組へと変わっていた。そして、クイズ王ブームが終焉した。このことがきっかけで、視聴者参加型クイズ番組出場のために練習や早押しの技術を磨いていたクイズプレイヤーは、目標とする大会がなくなってしまった。そこで、当時のクイズ研究会が、日頃の活動の成果を出したり、目標とする大会を自分達で作ろうとする動きが加速した。当時のオープン大会は、『アメリカ横断ウルトラクイズ』の影響が強くでており、「正統的な問題を出題し、早押しで強い者が勝つ」という価値観で開催されていた。
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