1回目の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:27 UTC 版)
遠征軍はプリマスに集結すると、1761年3月29日に出港し、悪天候でベル=イルに到着するまで7日かかった。島の南端を偵察した後、ジョン・クロフォード率いる軍勢はベル=イルの南にあるポール・アンドロ(仏: Port Andro)での上陸を試みた。また北のほうでは2個大隊によるフェイントも行われた。 クロフォード軍は想定以上の抵抗を受けた。フランスは予め塹壕を掘って準備しており、そこからの銃撃でクロフォード軍は多くの死傷者を出した。擲弾兵部隊は近くの断崖を登ったが後続部隊がおらず、多くが殺されるか捕虜にされた。奇襲の効果が薄く、ほかにやれることも少ないことからクロフォードは船上へ撤退した。続いて激しい嵐がおこり、多くの上陸船が壊された。遠征軍の指揮官たちは偵察の後ピットに手紙を書き、さらなる襲撃が不可能であるとした。これにより遠征軍が帰還する可能性が増した。 攻撃は直接的にはイギリスとフランス政府を狼狽させた。フランス宮廷では和平交渉が進んでいたにもかかわらずピットが遠征を強行したことに激怒し、これを背信であるとした。イギリスでは遠征に反対した者が諦めて結果を受け入れたが、ピットは2回目の上陸を推進した。マルティニーク島侵攻に参加する予定だった軍隊輸送船はケッペルへの増援に転用された。ピットは今やベル=イルの占領を戦争の主目的とした。
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