黒ミサ事件の波紋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 06:11 UTC 版)
「モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス」の記事における「黒ミサ事件の波紋」の解説
1679年にラ・ヴォワザンやその他360人もの黒ミサ参加者が逮捕される。事態の深刻さを知ったルイ14世は特別審問会を設置し、徹底的に真相の究明をさせた。取調べが進むにつれ、ラ・ヴォワザンの顧客で黒ミサや毒殺に関与している有力貴族達が多数いる事を知り、王は愕然とした。当時、フランスでは毒殺が流行しており、パリ警視総監のドーブレでさえ妻によって毒殺されていた。占い師と看板を掲げてはいるが、実態は毒薬の販売や堕胎を生業としている店が、パリには多くある事が明らかになった。しかも捜査が進むにつれ、ルイ14世の初恋の女性マリー・マンシーニの姉で王妃の女官長だったソワソン伯爵夫人オランプ・マンシーニなど、名立たる貴婦人達の中にさえラ・ヴォワザンの顧客がいた事が判明した。 さらに、ヴォワザンは名前を明かそうとしなかったが、逮捕者の1人のギブール神父の証言により、フランソワーズまでが彼らの顧客だった事が明らかになった。黒ミサ事件は、ルイ14世の治世で最大の醜聞となった。宮廷の有力者が何人も関与していたため、警察も本格的な捜査はできず、告訴されたのは110人ほどであった。1680年2月20日にヴォワザンは火刑にされた。ギブール神父は終身刑にされた。断罪された他の者も、死刑・終身刑・流刑を言い渡された。王は特別審問会を中止した。フランソワーズの破滅は自分の王政の破滅でもあると思い、ルイ14世はフランソワーズの名前が特別審問会で公表されるのを恐れたのだった。 結果、147人が処刑を免れた。全ての書類も焼却された。かつてはフランソワーズに溺れきっていたルイ14世も、この頃には嫉妬心やヒステリックな性格にうんざりし始め、嫌気がさしてきていたが、今回の事件で完全に愛想をつかしてしまった。 また、これには1669年に王とフランソワーズの子供の教育係になったスカロン夫人(マントノン侯爵夫人)の存在も関係していた。スカロン夫人は芯が強く信仰心が厚く、控えめで穏やかな女性であった。全く子供には関心を示さない実母のフランソワーズより、スカロン夫人ははるかにかいがいしく、愛情細やかに子供達を養育していた。長男のメーヌ公爵が高熱を出した時も、つきっきりだったのはスカロン夫人で、その時フランソワーズは賭博に熱中していた。王はスカロン夫人に安らぎを覚えるようになっていった。 ルイ14世の寵愛を失ったフランソワーズの部屋は、王の寝室から離れた部屋に移された。なおもフランソワーズは宮廷に留まっていたが、1686年に宮廷を出て、サン・ジョゼフ修道院に入った。フランソワーズの気が変わらないようにと、王はその後すぐにフランソワーズの部屋を別の者に与えた。 1691年に夫のモンテスパン侯爵が亡くなり、16年後の1707年5月26日に不遇のまま66歳で死去した。モンテスパン侯との間の息子ルイ・アントワーヌはダンタン公爵に叙せられ、ルイ14世との間の庶子達はブルボン家の分家との縁組が行われたりルイ14世による爵位授与でフランス貴族となり、子孫はフランス貴族として続いていった。
※この「黒ミサ事件の波紋」の解説は、「モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス」の解説の一部です。
「黒ミサ事件の波紋」を含む「モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス」の記事については、「モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス」の概要を参照ください。
- 黒ミサ事件の波紋のページへのリンク