鶴見・川崎埋立出願
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浅野総一郎は横浜と東京の間の海岸を自ら五回も踏査して、海岸が遠浅なので埋立が容易だと考え、東海道と鉄道が通っているので物流や労働力確保が簡単だと考えた。さらに港湾工学の権威の東京帝国大学教授広井勇と共に三度も実地調査して、お墨付きを得た。とりあえず明治37年(1904年)に鶴見・川崎沿岸の小規模な埋立を神奈川県に出願し、明治41年(1908年)には百五十万坪の大規模な埋立事業を神奈川県に出願した。後者は台湾で高雄に人工港を建築した山形要助に設計を依頼したもので、百五十万坪の埋立地を七区画に分けて、各区間に幅72mの運河を造り艀・曳船の通行を可能にして護岸石垣を築き、埋立地全体の海側に一文字防波堤を築いて幅約590m長さ4100m干潮時の深さ9mの運河を造って一万トン級の船が停泊係留できるようにし、埋立地に道路・鉄道を敷設して、東海道と既存の鉄道に接続し、理想的工業地帯を作り出すというものだった。ところが、大規模な埋立なので他の人の連署がないと許可できないと告げられて、浅野総一郎は安田財閥総帥安田善次郎に相談した。安田は二人の技師を連れて海岸の宿に三泊して、毎日朝六時に海岸から、夕方五時に釣船から潮の干満を調査した結果、埋立事業が有望だと判断して協力した。明治45年(1912年)3月に浅野総一郎・安田善次郎・渋沢栄一(渋沢財閥総帥)・安倍幸兵衛・渡辺福三郎・大谷嘉兵衛(三人は横浜の貿易商)で鶴見埋立組合を結成し改めて埋立事業を出願した。大正元年(1912年)秋に、埋立地域の漁業権交渉が二万円を支払う事でようやく妥結すると、大正2年(1913年)1月に埋立許可が下りた。
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