鶴見ヶ丘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 21:24 UTC 版)
観海寺温泉の崖下一帯を鶴見ヶ丘と呼んだ。現在でもこの地名は残っているが当時は石垣村であった。鶴見地獄や八幡地獄といった大規模な地獄があったことから、鉄輪と同様、地獄めぐりの拠点となっていた。また1925年(大正14年)には「九州の宝塚」と言われた歌劇団を持つ鶴見園という遊園地が出来て、乙原の別府遊園と鎬を削っていた。「鶴見踊り」という宣伝用の小唄まで作られ、市民にも広く唄われた。 戦後、鶴見園は一度閉鎖され、荒れるに任されていた。昭和40年代に入り遊園地が復活したものの、結局は閉園となってしまい、跡形もなくなっている。栄華を極めた鶴見園の跡地は分譲され、住宅地や商店に姿を変えた。また、八幡地獄は閉鎖されて公園に姿を変え、鶴見地獄も規模を縮小し寺院の境内となったことから観光名所の色合いが薄れた。このことから、現在鶴見ヶ丘は観光地としてとらえられることはまずない。
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