鳩摩羅什による加筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 19:31 UTC 版)
この十如是は、現存する梵文原典には無く、また竺法護の「正法華経」、そして世親の「法華論」にも見当たらない。鳩摩羅什が訳出した法華経(妙法蓮華経)と、鳩摩羅什訳を元に提婆達多品、薬草喩品の後半、普門品の偈頌を増広した闍那崛多・達磨笈多共訳の「添品妙法蓮華経」にのみ見出される。 これに近いものが『大智度論』巻32にある。 復(ま)た次に、一一の法に九種有り。一には体有り。二には各各法有り、眼・耳は、同じく四大の造なりと雖(いえど)も、而(しか)も眼のみ独り能く見、耳には見る功なきが如し。又火は熱を以て法と為し、而して潤おすこと能わざるが如し。三には諸法各の力有り、火は焼くことを以て力と為し、水は潤すことを以て力と為すが如し。四には諸法は各の自ら因有り。五には諸法は各の自ら縁有り。六には諸法は各の自ら果有り。七には諸法は各の自ら性有り。八には諸法は各の限礙有り。九には諸法は各の開通の方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法は凡て九事有り。 — 『大智度論』巻32 また、『大智度論』巻24には次のように記されている。 仏は是の衆生の種種の性相は、所謂趣向する所に随って、是くの如く偏に多くを知りたまう。如是貴。如是深心事。如是欲。如是業。如是行。如是煩悩。如是礼法。如是定。如是威儀。如是知。如是見。如是憶想分別。 — 『大智度論』巻24 したがって、鳩摩羅什が大智度論の「体・法(作)・力・因・縁・果(果・報)・性・限礙(相)・開通方便(本末究竟等)」などの九種法を変形展開し、十如是としたと推定されている。つまり、十如是は梵文原文からの鳩摩羅什による独自の増広であると考えられる。 天台宗で言う一念三千は十如是から派生した教理であるから、十如是が鳩摩羅什の独自の増広によるものだとすると、法華経の教説それ自体に基づく教理ではないことになる。他方で、一念三千は天台宗の重要な教理であるとはされているが、実際には智顗がその全著作中でも『摩訶止観』(五ノ上)で「此三千在一念心 若無心而已」として一度だけ言及したものを湛然が智顗自身の用いていない「一念三千」という語・名目にまとめた上で、それを「終窮・究竟の極説」とした。もし一念三千という教理に問題があるとしても、天台教学や日蓮教学は、智顗自身の教学を損なうものではないとしている。 しかし、智顗は鳩摩羅什訳の十如是の文について『法華玄義』(二ノ上)において「三転読文」を主張する。すなわち、十如是の箇所の文字の区切り方を3通りにずらして、たとえば「如是相 如是性……」を「如是相/如是性/……」「(如)/是相如/是性如/……」「(如是)/相如是/性如是/…」と3通りに読み、それぞれに「空・仮・中」と意味付けを行っている。これは十如是という鳩摩羅什が梵文をそのように(増広しつつ)翻訳したその漢字の列を操作して得たものである。竺法護訳の該当箇所「何等法 云何法……」(五何法)については、このような操作がない。智顗による十如是解釈は、鳩摩羅什による法華経梵文の原意に基づく操作結果に対するものであるということである。
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