高遠文庫・進徳館文庫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:51 UTC 版)
「伊那市立図書館」の記事における「高遠文庫・進徳館文庫」の解説
高遠藩の藩儒である中村元恒と、鉾持神社の神官であり国学者でもある井岡良古は、収集した書物を失うことを憂慮していた。文政13年(1830年)には中村と井岡が共同で、漢籍を中心とする鉾持文庫を鉾持神社に設置。下野国足利荘(現・栃木県足利市)の足利学校に倣って史書・経典・小説などを収集し、学者の研究に提供した。蔵書は学者からの寄付や藩主の後援によって収集されている。鉾持文庫は後に高遠文庫と改称し、進徳館設置の折には蔵書すべてが寄贈されている。高遠文庫は書物を収集・保存・利用した伊那谷初の施設だった。 万延元年(1860年)、高遠藩第8代(最後)藩主の内藤頼直は高遠藩の藩校として高遠藩学問所(進徳館)を開き、館内に進徳館文庫を設置した。内藤頼直は高遠文庫から寄贈された660部・3,388冊を進徳館文庫に交付し、さらには江戸の藩邸から1,300冊を送付。その後も毎年交付を行い、1869年(明治2年)の版籍奉還の際には978部・7,113冊となっていた。個人では入手が困難な文献もあり、進徳館文庫には文庫司(司書)もいたようである。進徳館文庫の中身は進徳館が流れを受けている陽明学の図書が多い。この中には中国・明の時代に印刷された『文献通考』(80冊)などもあり、日本で欠本なしに所蔵しているのは進徳館文庫だけであるという。1871年(明治4年)の廃藩置県で進徳館は閉鎖された。 廃藩置県後には上屋敷のあった東高遠の人口や財力が急落し、商人が多かった西高遠の人口や財力が相対的に強まった。進徳館は東高遠にあったが、筑摩県は学校の設置場所を西高遠としたため、1872年(明治5年)に学制が公布されると東高遠と西高遠の間で対立が起こった。この騒動で進徳館文庫4,473冊は筑摩県預かりとなり、1874年(明治7年)1月には書籍が馬の背に乗せられて松本に送られた。進徳館文庫は筑摩県から長野県に引き継がれ、その後長野師範学校に移された。筑摩県に送られる際に使用中だった書籍2,071冊は高遠が「借用」している。
※この「高遠文庫・進徳館文庫」の解説は、「伊那市立図書館」の解説の一部です。
「高遠文庫・進徳館文庫」を含む「伊那市立図書館」の記事については、「伊那市立図書館」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から高遠文庫・進徳館文庫を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から高遠文庫・進徳館文庫 を検索
- 高遠文庫・進徳館文庫のページへのリンク