高遠家、武田家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:46 UTC 版)
父は保科正則。最初は高遠城主の高遠頼継に属して武田晴信(信玄)の信濃侵攻に抵抗したが、天文21年(1552年)頃に高遠頼継が武田氏に滅ぼされると武田氏家臣となった。武田氏の信濃先方衆(120騎持)の1人として活躍し、下伊那攻めや北信濃攻めに従軍した。特に槍に優れた使い手であったため、「戦国の三弾正」に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸綱の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。 武田勝頼が高遠諏方氏を継いで高遠城主となると、勝頼直臣としてその幕下に入ったとみられる。天正3年(1575年)の長篠敗戦後には、三河から信濃伊那に逃れた勝頼を息子・正直が迎えた(『保科御事歴』)。その後、勝頼から8月10日付で28か条に及ぶ「覚」を与えられ、武田信豊の元で織田軍の信濃侵攻に備えて伊那郡の防衛体制の構築を命じられ、正俊自身も正直と共に大島城に配備されている。同6年(1578年)に子息の内藤昌月が上野箕輪城代に任命されると、勝頼から昌月・正俊両名に17か条に及ぶ「在城定書」を与えられ、昌月の後見を委ねられた。
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