高遠城への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
2月28日、河尻秀隆は信長から高遠城の攻略のために陣城を築けとの命を受ける。翌3月1日、織田信忠は武田家親族衆で高遠城主の仁科信盛(盛信)の籠城する信濃伊奈郡の高遠城(長野県伊那市高遠町)を包囲する。信盛は勝頼期に越後方面に在城していたが、天正9年(1581年)に高遠城主を兼任している。この際に「盛信」より「信盛」と改名していることが指摘される。 また、『甲乱記』によれば、信濃佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代・小山田昌成・大学助も信盛に従い高遠城に入城している。『信長公記』によれば、昌成は「脇大将(副将)であったという。信忠は地元の僧侶を使者とし、信盛に黄金と書状を送り、開城を促した。しかし信盛はこの要求を拒絶、使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて送り返されたという。一方、『武家事紀』所収の仁科信盛宛織田信忠書状では開城・降伏を勧告し、『加沢記』にはこれに対する籠城衆の返書が伝わっている。 『信長公記』によれば、翌3月2日に織田軍30,000は総攻撃を開始し、仁科信盛は譜代家老らとともに籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。織田方も岩倉家出身の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けたが、数で勝る織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科信盛・小山田昌成・大学助、渡辺照、諏方頼辰らは戦死ないしは自害し、高遠城は落城した。 盛信らの首級は信忠の陣に届けられ、主従の首級は京にて晒し首となった。首を取られ残された遺体は、彼を崇める地元の領民によって埋葬された。そこは今も「五郎山」と呼ばれている。
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