高等学校教諭から大学教養課程教官時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 07:48 UTC 版)
「亀井秀雄」の記事における「高等学校教諭から大学教養課程教官時代まで」の解説
北海道大学文学部卒業後の、1959年(昭和34年)4月、北海道立高等学校の教員(地方公務員)に就職、北海道芦別高等学校の教員となった。3年後に北海道札幌東高等学校へ異動し、その3年後の1965年(昭和40年)からは岩見沢市に新設された岩見沢駒澤短期大学の講師となった。 亀井は、大学卒業時には研究者となるコースを選ばなかったが、高校教員時代に執筆した「戦争下の私小説問題」(同人雑誌『位置』1963年10月)や「高見順論」(『文学』1965年3月)、短期大学講師時代に書いた「ある『文学史論』のゆくすえ」(『群像』同年11月)等が、研究論文として評価された。 1968年4月、北海道大学文学部助教授となる。教養部では「国語講読」という講義名で、近代文学の評論を講義(主に、自分の評論を読み上げた)した。 北大助教授就任の翌年の1969年、北大においても大学紛争が始まった。亀井は大学卒業後、9年間大学を離れていたため、北大の紛争の原因に関する予備知識がなく、心準備を欠いたまま、教養部の学生委員に「特攻志願」し、紛争に巻き込まれていった。亀井の『明治文学史』等を見ると、大学紛争の記憶と吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』との間に強い観念連合があったことが推測できるが、それはこの時の体験に基づくものと思われる。
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