高木説への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
1885年(明治18年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範としていたため、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むタンパク質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象を与えた。そのため、東京帝国大学医学部を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月25日には、同誌に村田豊作(東京帝国大学生理学助手)の反論が掲載され、特に同年7月の大沢謙二(東京帝国大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は、机上の空論であることが実証された。 また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問を持たれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回にわたって公表したものの、翌1886年(明治19年)2月の公表を最後に学理的に反証しないまま沈黙した。のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐したように、高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得られなかった。 高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べると脚気が減少する」という 疫学上のエビデンスは得られていた。その後も海軍軍医部は、後述の通り日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判したものの、麦飯優秀説について学問上の疑問点を挙げて反論されると両軍医とも沈黙したなど、ドイツコッホ研究所帰りの森林太郎(森鷗外)など病原菌説を唱える陸軍医たちの疑問を払拭するに至らなかった(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。
※この「高木説への批判」の解説は、「日本の脚気史」の解説の一部です。
「高木説への批判」を含む「日本の脚気史」の記事については、「日本の脚気史」の概要を参照ください。
- 高木説への批判のページへのリンク