高度成長期の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:48 UTC 版)
「渋谷スクランブル交差点」の記事における「高度成長期の発展」の解説
1964年の東京オリンピックが近づくと、それを名目として広場のレイアウトは再度変更された。駐車スペースは7年たらずで廃止され、方形の噴水を備えた待ち合わせエリアが新たに整備された。 1960年代半ばになると、経済成長と交通網の整備が進んだことにより、都心の百貨店には他県近郊からの客層が大幅に増えるようになった。もともと渋谷は谷あいの狭隘な地のため消費者を受け入れる商業地としての力が弱く、沿線の若者は渋谷を素通りして新宿や銀座へ遊びに行ってしまうことが多かったが、ここにきて渋谷にも百貨店進出の機運が高まった。まず最初に、丸井渋谷店が1967年2月に開業し、次いで渋谷を本拠とする東急が大向小学校跡地に東急百貨店本店を1967年11月に開業した。そして、堤清二が1966年に社長へ就任してから拡大路線をとっていた西武が1968年4月19日に、この交差点のすぐ北100メートルの井之頭通り入口に西武百貨店を開業した。西武百貨店は多くの媒体を駆使したコマーシャル展開を行ない、それまでせいぜい盛り場の北限に過ぎなかったその一帯がにわかに活況を呈し始めた。西武百貨店が開業したことで地下街入口の通行量は3-5割増加し、開業1か月前には峰岸ビル前(現在の QFRONT 前)の人通りは平日22,000人、休日21,000人だったが、開業1か月後にはそれぞれ74,000人、125,000人に激増した。1973年、さらに北にオープンした渋谷パルコも爆発的人気を呼んで周辺を活性化させ、センター街にも若者が集まるようになり、急増する通行人に対応するため1973年にこの交差点はスクランブル化された。この頃から「流行の発信地」という渋谷のブランドイメージが確立するようになった。
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