駿州錯乱と河東
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:09 UTC 版)
詳細は「駿河侵攻」を参照 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて以降、今川氏は三河松平氏(徳川氏)の自立など急速に勢力を弱め、永禄10年(1567年)武田晴信(信玄)は、駿甲同盟の破棄を宣言した。 永禄11年、武田晴信は徳川家康と連合して今川領に侵攻、富士川を下って駿府を占領すると、北条氏政は今川氏救援を名目に河東地域に進出して武田氏に寝返った葛山氏元を排除すると、興国寺城・深沢城・長久保城・吉原城・蒲原城などを占領した。氏政は武田氏に抵抗する地元の国衆から所領の安堵を求められるが、氏政はあくまでも遠江に逃れた今川氏真の名代の形式で安堵を行っている。翌永禄12年(1569年)4月に掛川城で徳川家康に降伏した氏真夫妻は北条領に送られ、晴信も一旦撤退した。 ところが、これを見た北条氏政は一転して河東を含めた今川領全域の併合に方針を転換、氏真に自分の嫡男である国王丸(北条氏直)を養子として将来的に家督を譲るように迫り承諾させ、これによって氏政は国王丸の後見として氏真の闕所処分権・知行宛行権に関与する権限を得ると共に今川氏を後北条氏の従属大名化させることに成功して、北条家臣に駿河の所領を与え始めた。ただし、今川家臣団に対する軍事指揮権は氏政が握ったものの、所領に関しては氏政ー氏真ー今川家臣という原則が守られていた。しかし、これに不満な今川氏真は妻の早川殿(北条氏康の娘・氏政の妹)と共に徳川家康の元に逃れ、また関東地方の状況も不安定なこと(関宿合戦)からこの構想も綻びが現れた。 これに対して武田晴信は大規模な反攻を開始し、北条氏の小田原城を包囲した後に撤退すると、追撃する北条軍を三増峠の戦いで破り、続いて駿河に再侵攻して武田氏撤退後に北条氏が押さえていた駿府などを一気に奪って、永禄12年末には北条軍は興国寺城・深沢城まで撤退した。その後も両者の攻防が続くが、元亀2年(1571年)に深沢城が武田氏に攻め落とされると、徳川家康との戦いに専念したい晴信と今川領併合構想が破綻した氏政の間で和解の機運が出てきた。同年11月の北条氏康の死をきっかけに両者の和平交渉は本格化し、当時伊豆国の一部と認識されていた戸倉城および黄瀬川以東・狩野川以南を除いた河東全域を武田氏に譲ることで甲相同盟が再締結されることになった。
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