館の構造・遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:36 UTC 版)
広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。 外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成されると考えられ、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、正確な年代は不明であるが丸馬出が築かれていたことが判明した。 内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂に関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。『高白斎記』によれば、1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されている。 現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。
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