館主の割拠と蠣崎氏の台頭とは? わかりやすく解説

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館主の割拠と蠣崎氏の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 02:31 UTC 版)

道南十二館」の記事における「館主の割拠と蠣崎氏の台頭」の解説

渡島半島居住した和人津軽安藤氏安東氏)の支配下置かれた。1454年享徳3年)、安東政季南部氏追われ武田信広とともに勢力圏であった蝦夷地渡り配下武将12の館に配置1456年康正2年)に秋田小鹿島現秋田県男鹿市)を経て秋田河北地方(後の檜山郡現秋田県能代市)に南遷する際には、茂別館館主安東家政下国守護)、大館館主下国定季(松前守護)、花沢館主蠣崎季繁上国守護)の3名を「守護」に任じ、他の館主統率させたと伝えられている。なお中世に相当する時期北海道についての文献史料極めて乏しく以後記述もその多くが『新羅之記録』に基づくものである本書主要な編纂目的として蠣崎松前氏による和人地支配正統性主張考えられるため、本書中の蠣崎氏についての記述に関しては、この点を考慮する必要があるとされている。 翌1457年長禄元年東部首領コシャマイン中心にアイヌ団結し和人に向け戦端開いたコシャマインの戦い発生すると、十二館のうち10までが落城した。翌1458年長禄2年)に蠣崎季繁女婿であった武田信広によってコシャマイン父子討たれ以降戦い散発し、十二館は交戦時の拠点となった1496年明応5年)には、粗暴行状悪さ理由松前守護職であった一族下国恒季が、武田信広嫡男である蠣崎光広配下蝦夷島館主らにより安東氏訴えられ、恒季は同年11月安東氏の手勢により攻められ自害した。これにより松前守護職安東恒季補佐した相原季胤が継いだ1512年永正9年蝦夷地東部村長であったショヤ庶野)、コウジ(訇時)兄弟率いアイヌ蜂起し、数カ所の館を襲撃するという事件が起きる。上国守護職であった蠣崎光広義広親子撃退し一時小康状態となるものの、翌1513年永正10年)には再度攻撃始め松前大館陥落し松前守護職相原季胤らが討ち取られた。空きとなった大館には、翌1514年永正11年)光広が入城した安東氏当初これを認めなかったが、再三に及ぶ要請を受け、上国加え松前守護職への就任追認蠣崎氏蝦夷地訪れ和人商船から運上徴収することを認め、その過半檜山送られることとした。なお、安東恒季誅殺やこのアイヌ蜂起を光広による松前守護職簒奪謀略とする説がある。こうして松前大館拠る蠣崎氏勢力が他の館主優越する体制固まり蠣崎氏による他の館主被官化が進んだ

※この「館主の割拠と蠣崎氏の台頭」の解説は、「道南十二館」の解説の一部です。
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