額田家の流転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:30 UTC 版)
額田城の額田小野崎氏は小野崎氏支流の中でも独立性が強く、佐竹氏の内乱においても混乱の中で主家の所領を横領するなど、変則的な行動が多かった。小野崎従通・昭通(照通)の頃には江戸氏の内紛「神生の乱」に際し、佐竹氏と対立する陸奥国の伊達政宗から内応を促す書面が残る。この頃天正18年(1590年)春に関東は、豊臣秀吉による小田原征伐という激変を迎えるが、従通は佐竹義宣に付属し小田原の秀吉の下に参陣している。翌年、江戸氏の家臣団の内部抗争に際し額田小野崎氏は佐竹氏に逆らう動きを見せたため、義宣により額田城を攻められた。一旦はこれを耐えたが、常陸一国の領有を豊臣氏から認定されていた義宣は、秀吉からの退城勧告を突き付けて従通に迫った。額田小野崎氏は城を出て、下野国の大関氏を頼って落ちたが、大関氏の下も安泰ではないと感じ、日光の中禅寺に逃れた。ここに伊達氏からの使者が訪れ、伊達氏に引き取られた。 その後、慶長7年(1602年)に仇敵の佐竹氏が秋田藩に移封となり常陸国を去ると、額田小野崎氏の家臣団は額田に戻ってきた。伊達家にいた小野崎昭通は、慶長11年(1606年)に伊達政宗の娘五郎八姫と徳川家康六男の松平忠輝の婚姻に際し五郎八姫に付属して信濃国川中島藩の家中となり、慶長15年(1610年)の忠輝の越後加増に伴い越後高田藩士となるが、元和2年(1616年)7月に忠輝が改易となったため浪人し、額田に戻ってきた。 その頃の常陸一国は、慶長14年(1609年)末に徳川家康の子の徳川頼房に与えられていた。新規立藩した頼房の水戸家は広く諸国に人材を求めていたが、増上寺の仲介により、同国内にいた昭通は元和4年(1618年)に徳川御三家の水戸藩に6百石で仕えることとなった。15歳の頼房は「このような武功の人材は広く他国に求めたいと思っていたのに、まさか我が藩領にこのような人材がいるとは思わず、これは幸いである。逆に、このような人材を他国に流出させてはならぬ。」と言ったと伝わる。昭通は名を照通と変え、子孫は以降は水戸藩士となった。
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