順番に死ぬわけでなし春二番
作 者 | |
季 語 | |
季 節 | 春 |
出 典 | |
前 書 | |
評 言 | 「順番」というのは何につけても難しいものであるが、テストの結果ならば点数で客観的に順番をつけることは可能であるし、電車やバスならば列に並ぶということがすなわち順番になる。 さて、死ぬ順番となるとどうであろう。神のみぞ知る世界なのか。普通に考えるならば年齢によって、その順番は決まってくるものであるが、現実はなかなかうまくいかない。戦争、事故や災害などは別にして、通常の生活であるならば、おそらく順番は決まっているのであろう。年齢を重ねれば、自然にその状態になっていく、それが順番、順縁である。縁(えにし)に順うことである。少なく見積もっても江戸時代、あるいは昭和の終戦後くらいまでは、そうであったかもしれない。なんの根拠もないのであるが、戦争、伝染病、自然災害以外、順番を乱すことがらは考えられない。ところが、自動車社会の訪れが大きいと思うが、交通事故によって第一義的に順番が狂ってきた。さらに食生活の変化、人間関係を含む社会環境、自然環境の変化によりに身体的状況に変調をきたした。こうなると順番は無い。誰が先に行っても不思議ではない。 順番(order)を例えば英語にすると、“make(form) a line”、「列を作ること」であり、それが並んで順番を待つになる。あるいは“the way in which people or things are arranged in relation to each other”、「人や物が互いとの関係できちんと並べられる方法」(ワードパワー英英和辞典より)となり、関係性の上で並べると、「秩序」になってくる。まさに、順縁はきちんと関係づける配列であり、自然界としての状況、あるいは人為として法律、規則、権威などに人々が従っている状況である。逆縁はその関係性、秩序が崩れることにより生じる。 山崎聰はこのような状況に対し、開き直ってしまったか。あるいは逆境に立ち向かおうとしているのか。この句にはそんな重苦しさはあまりない。「春二番」がそう思わせているのかもしれない。それにしても題材自体は非常に重いものを含んでいる。それを正面で向き合えるというよりは、横目で睨み返しているようである。強い南風であるが、「一番」の待ちこがれる思いに対し、「二番」のちょっと一息入れて、ほっと力が抜けた感じ。「春二番」の季語としてイメージ、面白さはもちろん、題材との軽重での鑑賞も作者の思いがより出てくると思われる。 この句と並んで、 世の春をかたまって咲きしあわせか 山崎 聰 春の沖からひっそりと一つ着く が目に付く。春風駘蕩ではないが、大きな句柄はこの作者の特徴であろう。この大きさと人間社会への繊細な感受性、細やかな目配りが「順番」という世の中のしがらみを和らげているようである。 『忘形』(ぼうぎょう) 2003年(平成15年)刊 ≪写真は屋久島永田浜≫ |
評 者 | |
備 考 |
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