靖国たたら
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:54 UTC 版)
たたら製鉄は大正12年(1923年)に一旦操業を終了したが、昭和6年(1931年)に満州事変が勃発するなど世間に軍国主義的、民族主義的な色彩が強まる中、軍刀用の鋼材生産のために復活が望まれるようになる。 それを受ける形で昭和8年(1933年)、財団法人日本刀鍛錬会が事業主となり「靖国たたら」として操業が再開された。刀の鍛錬所は靖国神社の境内に置かれ、島根県仁多郡鳥上村大呂に再興されたたたらが鋼材を供給する事に決まった。 その際、製品の中で最上質の鋼の名称として「玉鋼」が用いられ、さらに上から鶴、松、竹、梅の4段階に等級分けされた。 また、玉鋼よりも下位の生産品として「目白」、「造粉」、品質の一定しない「歩鉧(ぶげら)」、歩鉧が細かく砕けた「鉧細(けらこま)」などの他、大量の銑鉄ができる。それらのうち、一部は鍛冶場での加熱、鍛錬により脱炭されて錬鉄(その形から「包丁鉄」と呼ばれた)に仕上げられた後、刀身の芯鉄などに用いられたが、多くは安来製鋼所に払い下げられて製鋼材料として使用された。 靖国たたら生産品の分析結果 (単位:%)品別炭素ケイ素マンガンリン硫黄銅玉鋼(鶴)1.42 痕跡 痕跡 0.013 0.007 痕跡 玉鋼(松)1.17 0.02 0.02 0.032 0.008 0.01 包丁鉄0.26 0.03 不検出 0.022 0.004 0.01 操業は昭和14年(1939年)のピーク時で年15回、12年間の総計で118回行われたが、1回あたりの玉鋼の生産量は平均430 kgである。その結果、靖国たたらは第二次世界大戦終結までに約50 tの玉鋼を生産し、それによって約8,100振の日本刀が打ち上げられた。
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