青い眼の落語家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 08:07 UTC 版)
「快楽亭ブラック (初代)」の記事における「青い眼の落語家」の解説
先祖はスコットランド人、祖父の代までは海軍や陸軍の軍人。1865年(慶応元年)、アジア各地を巡業する歌手として来日したのち横浜居留地初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者となった父・ジョン・レディー・ブラックの後を追い、母とともに来日した。父はのちにダ・ローザの支援により『日新真事誌』という新聞を発行して明治政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、日本を見限って上海に渡った。このころ近所にいた演説好きの堀竜太と親しくなり、自身も数度演説に立った。 18歳になっていた長男ブラックは単身日本に残る道を選び、1876年(明治9年)、奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し始める。同年7月には浅草西鳥越の芳川亭と日本橋南茅場町の宮松亭において、ハール・ブラックの名で西洋手品を興行した記録が残っている。その後の2〜3年間は、一説によるとアメリカのシアトルで母と共に生活していたという。 1878年(明治11年)、再度来日。翌年春、以前から親交があった講談師2代目松林伯圓に誘われ横浜馬車道の富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。同年、正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った。1880年(明治13年)6月11日に父が53歳で死去。 当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代目伊東燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌1880年(明治13年)に許可を取得。以後、本格的に寄席に出演するようになった。ところが親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英語塾を開かざるを得なかったが、結局は演芸の世界に舞い戻る。1884年(明治17年)には三遊亭圓朝・3代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入った。
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