電気鉄道関連
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明治30年代、大阪市と紀州方面を結ぶ鉄道会社は南海鉄道と高野鉄道があったが設備が十分でなく、また南海鉄道南海本線は所要時間2時間以上であったため、絶対的な輸送力が不足していた。そこで大阪市と堺市を結ぶ阪堺電気軌道が1909年(明治42年)12月に設立され、同社社長を務めることとなる。阪堺電気軌道は南海鉄道と路線が競合していたため、両社間において競争が起こったが、不毛な競争を終息させるため両社間で合併協議がなされ、1915年(大正4年)、南海鉄道が阪堺電気軌道を吸収合併することと決まり、面目上、阪堺電気軌道側から南海鉄道社長が選出されることになったため、引き続き南海鉄道の社長となる。だが、直輝は有能だった南海電鉄側の大塚惟明に実務を任せることにしたため、その報告を聞き協議するだけの立場にとどめた。1922年(大正11年)9月、貴族院議員に勅選されていたことや実業界から身を引くことを決意していたため、辞表を提出し、その後は相談役として同社と関わった。次期社長は大塚惟明に決まったが、健康上の理由により早期の後継者を選出する必要が出たため、その選出に関わることとなる。 1907年(明治40年)4月、阪神電気鉄道の株主総会が開かれたが、それに先立ち社長であった外山脩造が引退し、総会時は社長は空席のままだった。そのため直輝を社長に、という打診があったが、この際はガス事業の事情により辞退する。1910年(明治43年)12月、北大阪電気軌道が設立され同社取締役となるが、わずか数ヶ月で阪神電鉄に吸収合併されることとなり、阪神電鉄の取締役となった。1917年(大正6年)、今西林三郎が専務取締役の解任を申し出たことに際し、同年大阪瓦斯社長を解任されていたこと、関西の私鉄を一つにまとめ上げるという理想があったことなどがあり、この際は快く引き受け空席だった社長を務めることになった。南海鉄道や大阪電気軌道とも関係が深く、理想が実現する可能性は低くなかったが、結局その理想の実現には至らず、南海電鉄社長辞任と同じ理由により1922年(大正11年)社長を辞任する。 生駒トンネル建設に際し、多大な負債が発生した発注元の大阪電気軌道、また建設を担当した大林組を支援し再建する。それについては次節の北浜銀行関連に譲る。
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