難破船の分解、私掠船、海賊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 05:51 UTC 版)
「バハマの歴史」の記事における「難破船の分解、私掠船、海賊」の解説
バハマ人はすぐに難破船の分解をめぐってスペインとの紛争を起こした。バハマ人の業者はスペイン人業者を追い払い、スペインの難破船に近づくことを防いだ。さらにスペイン人が難破船から回収したものを奪った。スペインはバハマを襲撃したが、バハマはイングランドとスペインが戦争状態になかったにもかかわらず対スペインの私掠船を雇った。1684年、スペインはニュー・プロビデンスとエルーセラの集落を焼き討ち(英語版)にして、集落を放棄に追い込んだが、1686年にはジャマイカからの植民者が再度ニュー・プロビデンスに入植した。 1690年代、イングランドの私掠船(当時はイングランドが大同盟戦争でフランスと戦っていた)はバハマ諸島で基地を設立した。1696年、ヘンリー・エヴリー(当時はヘンリー・ブリッジマン(Henry Bridgeman)という偽名を使用していた)は船のファンシー(英語版)を購入して、海賊の略奪品を載せてナッソー(1694年に設立されたバハマの首府)に入港した。エヴリーは総督のニコラス・トロット(Nicholas Trott、スティード・ボネットの裁判に関与したニコラス・トロット(英語版)のおじ)に金銀を賄賂として贈り、さらに50トンの象牙、100バレルの火薬を載せていたファンシーを譲った。イングランドが1697年のレイスウェイク条約でフランスと講和すると、多くの私掠船船員は海賊になった。この時期より、海賊はナッソーを基地とするようになった。植民地領主に任命された総督は一般的には海賊を取り締める姿勢を示すが、多くが海賊との交渉を疑われた。そして、1701年にはスペイン継承戦争でイングランドが再びフランスとスペインと戦争状態に入り、1703年と1706年にはフランスとスペインの連合艦隊がナッソーを襲撃した。襲撃の後は入植者の一部が去り、植民地領主はバハマ諸島の統治を放棄した。 バハマを実効支配できる政府が存在しなくなったことで、イングランドの私掠船はナッソーを基地として活動、私掠船共和国と呼ばれる状況が11年間も続くこととなった。私掠船はフランス船とスペイン船を攻撃、フランス軍とスペイン軍もナッソーを数度焼き討ちにした。スペイン継承戦争は1714年に終結したが、一部の私掠船には報せが届くのが遅く、またはそれを受け入れたくなかったため海賊業に転じた。一部の文献では1713年時点のバハマで住民が200世帯程度だったのに対し、海賊の人数は少なくとも1千人に上っていた。 このようにして、ナッソーの「私掠船共和国」は「海賊共和国」に代わった。少なくとも20人の海賊船長がナッソーなどバハマ諸島の地域を基地としており、これにはヘンリー・ジェニングス、エドワード・ティーチ(「黒髭」)、ベンジャミン・ホーニゴールド、スティード・ボネットなども含まれた。元の住民は多くがニュー・プロビデンス島からエルーセラ島やアバコ諸島(英語版)に移住して海賊のいやがらせから逃れた。一方、ハーバー島の住民はニューイングランドやバージニアからの商人が海賊稼業に必要な物資を売りにくるため、仲介を申し出ていた。
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