陰謀・逮捕・処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 02:27 UTC 版)
「トマ・ド・マイ・ド・ファヴラ」の記事における「陰謀・逮捕・処刑」の解説
フランス革命が勃発すると、かつての雇用主プロヴァンス伯が進めていた、革命から王政を救う陰謀に参加した。ファヴラは陰謀に必要な費用として200万リーヴルの借り入れを銀行家たちに頼む任務を命じられた。しかし陰謀は察知され、ファヴラは1789年12月24日深夜、妻とともに逮捕される。告発文書にはこの陰謀の筋書きが次のように記されている。すなわち、プロヴァンス伯の兄王ルイ16世一家をテュイルリー宮殿から救出して国境近くのペロンヌに退避させ、プロヴァンス伯が絶対王権を復活させてフランス王国の摂政に就任する。同時に、3万人の兵士がパリ市を包囲し、それによって巻き起こる混乱の中で、パリ市の3人の政治指導者、財務長官ジャック・ネッケル、パリ市長バイイ及び国民衛兵軍総司令官ラファイエットを暗殺する。パリ市の革命的市民は食糧供給を絶たれ、飢餓の中で摂政に降伏する…。 プロヴァンス伯はファヴラ逮捕の累が及ぶことを恐れ、ファヴラ及び彼の陰謀計画とは自分が無関係である旨を、パリ市庁舎での演説及び憲法制定国民議会に対する書簡で表明した。陰謀計画の主導者がプロヴァンス伯だったのかファヴラ侯爵だったのかに関しては、議論の余地がある。これに関して、プロヴァンス伯(ルイ18世)は後に側近ブラカ公爵(英語版)に対して次のように述懐している。 私は、ファヴラ氏の計画を聞くべきではなかったし、それが自分の計画ではないと否認すべきでもなかったのです。…しかし、言っておかなければならないのは、本当のところ、計画には暗殺も含まれていましたが、そのことは知りませんでした。知っていたのは、[国王一家の]逃亡計画のことだけです。 ファヴラがシャトレ裁判所(英語版)の監獄に収容された後、2か月近く尋問や捜査が続けられたが、集められた証言は互いに矛盾して証拠が不足した。『パリの革命(Révolutions de Paris)』の発行者で無政府主義者のシルヴァン・マレシャル(英語版)でさえ、ファヴラを有罪とするには証拠不十分であると認めていた。しかし1790年1月26日にファヴラを救おうとする一部王党派の武装計画(ラファイエットに阻止された)が露見すると、パリ市民は裁判所にファヴラを処刑するよう圧力をかけるようになった。オメール・タロン(英語版)らシャトレ裁判所の判事たちは、1790年2月18日、ファヴラに絞首刑による死刑を宣告した。 ファヴラは裁判所から、陰謀の詳細や他の参加者について自白すれば死刑を執行猶予にするという申し出を受けたが、これを拒否し、いかなる情報提供もしなかった。刑の執行は死刑宣告の翌日、1790年2月19日夜にグレーヴ広場(英語版)で行われた。ファヴラの処刑はパリ民衆の間に興奮を呼び起こした。なぜならフランス革命で初めて、貴族を処刑する際に、貴族と平民の身分差を一切考慮しない処刑方法を採ったからである。刑吏に死刑執行令状が読み上げられた際、ファヴラはその刑吏に向かって最期の言葉を放った、「1つの条文で3語も読み間違えるとは。」
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