陥落と放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/22 14:49 UTC 版)
253年にはパルティアを倒したサーサーン朝がドゥラに一度目の攻撃を仕掛けた。256年から257年には二度目の攻城戦が行われ、ローマ軍は市内に立て篭もったが、サーサーン朝軍はトンネルと塹壕を掘ってこれを攻撃した。陥落後、273年にはドゥラは放棄された。これはユーフラテスの川筋が変わったことにも一因があったとみられる。 この戦いについては文書による記録は残っていないが、発掘の結果詳しい経緯が分かるようになっている。サーサーン朝軍は砂漠に面した市の西壁の前に陣取り、トンネルを掘って上にある城壁を崩し突破口を作ろうとした。守るローマ軍はこれを見越して、城壁沿いの市街地を取り壊し、その瓦礫で城壁を支えることにした。この時にキリスト教聖堂、シナゴーグ、ミトラ教神殿をはじめとする建物や家が埋められ、結果としてフレスコ画などが後世に残ることになった。さらに城壁の補強のため外からも土の山で支えて斜堤(glacis)を築き、日干しレンガで覆って浸食を防ごうとした。 256年、シャープール1世率いる軍による攻撃が開始された。シャープール1世は工兵に、ドゥラの正門であるパルミラ門から二つ北にある塔、考古学者が第19塔と呼ぶ塔の下にトンネルを掘らせた。これに気づいたローマ軍は逆にトンネルを掘り、サーサーン朝軍の掘るトンネルにぶつけ、城壁を掘り崩そうとするサーサーン朝の兵を攻撃しようとした。ローマ軍の逆トンネルがサーサーン朝軍のトンネルを掘りあてると、すでにサーサーン朝軍は城壁に沿って複雑な地中回廊を築いていた。サーサーン朝軍はローマ軍の攻撃を撃退したが、ローマ軍は逃げようとする兵に気づいて逆トンネルを封鎖した。負傷者や地中で迷った者はトンネル内で死んだが、この時のローマ兵やローマの硬貨がトンネル内で見つかっている。この逆トンネル作戦は成功し、サーサーン朝軍は第19塔地下のトンネルを放棄した。 次にサーサーン朝軍は西壁最南端の第14塔を攻撃した。第14塔は町の南の深い谷間を見下ろしていたが、攻撃側はこの谷間から塔を攻めた。今度はトンネル作戦が成功し、塔とその付属の城壁が沈下を始めた。しかしローマ軍が事前に城壁を補強していたために城壁は崩壊を免れた。 サーサーン朝軍は三度町への侵入を試みた。第14塔を攻めるために攻城塔が組み立てられたが、ローマ軍は攻城塔の城壁への接近を止めるため盛んに攻撃した。一方サーサーン朝軍は攻城塔の近くでトンネルを掘り始めたが、これは城壁を崩すためではなく(城壁は補強されていたため容易に崩れないことがサーサーン朝軍にも分かってきた)、城壁内に兵士を送るためのものだった。四人が肩を並べて進めるほどの幅のトンネルがついに市内にまで貫通し、これがドゥラ陥落の決定打となった。サーサーン朝兵が攻城塔に上って城壁を攻撃し、ローマ軍のほぼ全軍が城壁上でこれを撃退しようとしていた時、トンネル内のサーサーン朝兵は抵抗なく市内に侵入しドゥラを制圧した。ドゥラの生き残りはクテシフォンへ連行されて奴隷に売られ、ドゥラが再建されることはなかった。 研究者の2009年の主張によれば、サーサーン朝軍は一種の毒ガスも使用したとみられる。ドゥラの発掘の過程で城壁地下から20体ほどのローマ兵の遺体が発見された。レスター大学の考古学者は、サーサーン朝軍は瀝青や硫黄の結晶に火をつけて有毒のガスを発生させ、トンネル内をガスで満たして城内へ拡散させたと見ている。
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