ミトラ教神殿とは? わかりやすく解説

ミトラ教神殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/22 14:49 UTC 版)

ドゥラ・エウロポス」の記事における「ミトラ教神殿」の解説

西の市壁補強のために埋められ土中保存され建物の中からは、ミトラ教神殿(ミトラエウム、Mithraeum)も発見された。これは第23塔と第24塔の間の街区にあった兵営都市ドゥラからは軍人の間に信者多かったミトラ秘儀につながる痕跡がきっと見つかるはずだという考古学者らによる長年期待の末、1934年1月ミトラ教施設発掘された。人工洞窟中にはほとんど何も残っていなかったが、聖域きわめて興味深いのであることが明らかになった。ここには雄牛屠る場面というローマ遺跡のミトラエウムのほとんどに共通する典型的な浮彫があったが、ミトラス描いたすべての図像で、その姿はパルティア風の衣装、つまりズボンブーツ尖った帽子という姿をしていた。ホプキンスは、「ドゥラのミトラエウムは、文化仲介者としての最高の例を我々に見せている。パルティア宗教が、パルティア支配下でドゥラに持ち込まれローマ時代まで続いたのだ」と推測している(ミトラス崇拝イラン発するが、ローマで広く広がっている)。 神殿最古部分168年から171年の間に遡る。この時期ドゥラはすでにローマ領だったが、壁画はまだパルティア風を強く残していた 。聖域の一番奥にはアーチがあり、二つ支柱にはパルティア風の衣装着てパルティア風のポーズをとった座像がある。ホプキンスは、これらはゾロアスターとその高名な弟子オスタネスではないかという一つ仮説紹介しているが、彼自身はこれを支持しないという。アーチ内部には黄道十二星座描かれている 。

※この「ミトラ教神殿」の解説は、「ドゥラ・エウロポス」の解説の一部です。
「ミトラ教神殿」を含む「ドゥラ・エウロポス」の記事については、「ドゥラ・エウロポス」の概要を参照ください。

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