ミトリダテス6世征討
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「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「ミトリダテス6世征討」の解説
詳細は「第三次ミトリダテス戦争」を参照 ポンペイウスはガビニウス法によって20個軍団の3年期限の総司令官の地位を持っていたが、海賊征討後もこれを手放さなかった。紀元前66年、護民官ガイウス・マニリウスはポントス王ミトリダテス6世征討軍の指揮権をポンペイウスへ与える法をプレブス民会に提案(マニリウス法)。ガビニウス法と違って今度は反対の声も少なく、クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌスやクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスらが反対したものの、キケロによる『グナエウス・ポンペイウスのインペリウムについて(De imperio Gn. Pompei)』という賛成演説などもあり、市民集会で可決された。 東方へ向かったポンペイウスはルクッルスと交代したが、セルトリウスの反乱の時のメテッルス・ピウスとは違い、ルクッルスはポンペイウスを「ハゲタカ」「新参者」、ポンペイウスはルクッルスを「トーガを纏ったクセルクセス」「吝嗇家」(りんしょくか=けちんぼ)と互いを罵ったという。 既にミトリダテス6世の勢力はルクッルスによって相当に抑え込まれており、ミトリダテス6世はアルメニア王国(アルタクシアス朝)へと後退した上で、ポンペイウス軍と会戦に及んだ。ポンペイウスはミトリダテス6世軍を撃破し、ミトリダテス6世は婿でアルメニアのティグラネス2世の元へ逃れようとしたが、ローマのお尋ね者となったミトリダテス6世を匿うことの不利を悟ったティグラネス2世はミトリダテス6世との同盟を破棄して、ミトリダテス6世を捕らえた上でローマへ引き渡すと布告した。このため、ミトリダテス6世はクリミア半島のボスポロス王国まで落ち延びざるを得なくなった。ポンペイウスはキリキアやシリアなどのティグラネス2世が征服した領土の放棄及びローマへの賠償金支払を条件とした講和をアルメニアと結んだ。 紀元前65年、パルティアへの抑えとしてルキウス・アフラニウスをアルメニアへ残し、ポンペイウスはミトリダテス6世の追討を続けたものの、カフカス・イベリア王国(en:Caucasian Iberia)やカフカス・アルバニア王国の抵抗や冬が迫っていたこともあって、ファシス川(Phasis、現:リオニ川)まで進んで撤退。ポントスまで戻って冬営しポントスをローマの属州とした。
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