闇献金疑惑・余生
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「ヘルムート・コール」の記事における「闇献金疑惑・余生」の解説
首相退任直後、敗北の責任を取って四半世紀にわたって務めたCDU党首も辞任した。しかし追い打ちをかけるように、1999年にはコール自身が受け取り署名した200万ドイツマルクの政治献金の出所が不明瞭であることが発覚。CDUがコールの指示の下、不法な政治資金を調達し証拠を隠滅した疑惑が発覚し、ドイツ統一の功労者としての立場も一転して地に墜ちた。連邦議会には調査委員会が設置され、コールは2000年1月18日に名誉党首を辞任した。同年、ボン地検は特別背任罪でコールやその懐刀とされていたヴォルフガング・ショイブレ党首、フォルカー・リューエ元国防相などの捜査に本格的に着手する。同年3月16日には連邦議会で証人喚問が開始され、その後も数回にわたりコールやショイブレに対し喚問が継続されるが決定打には結びつかなかった。翌2001年2月8日、ボン地検は罰金30万マルクをコールが支払ったことで立件を断念する。更に、翌2002年7月4日にはベルリン行政裁が、闇献金疑惑について旧東ドイツの諜報機関・シュタージが収集していた情報の公開をプライバシー保護を理由に差し止めたことにより、同事件は幕引きとなる。2002年秋の連邦議会選挙に出馬せず、政界を完全に引退した。ただ2002年に行われたハンガリーの総選挙では当時のオルバーン・ヴィクトル首相の応援に駆けつけている。 2001年7月5日には、長年連れ添った夫人・ハンネローレが「太陽アレルギー」という現代医学では治療が不可能な難病を苦に自殺(68歳)。前日には闇献金事件が事実上幕引きとなっており、夫の無実を見届けた、いわば、覚悟の自殺であった。かつての栄光に比して、コールの晩年は全く寂しいものとなっている。その後は回顧録を執筆。2004年12月のスマトラ沖地震による大津波災害の際には偶然スリランカでバカンス中で、スリランカ軍のヘリコプターで救助されたというニュースで久々に人々の注目となった。 2008年2月に自宅で転倒し頭部と脚を負傷したことで療養生活に入る。同年5月にかねて交際していた35歳年下のマイケ・リヒター(Maike Richter)と結婚した。同年、亡き前妻の名を冠した財団を設立。ベルリンの壁崩壊20周年を迎えた2009年11月、ブッシュ元大統領やゴルバチョフ元大統領との会見には出席したものの、政府主催の記念式典には出席しなかった。公式には健康が優れないためとされているが、政府専用機の使用を断られたのを不満に思い出席しなかったとも報道されている。 2010年10月3日にベルリンで開かれたドイツ再統一20周年記念式典には車椅子姿で出席した。
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