関釜連絡船国有化と傭船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:09 UTC 版)
「対馬丸 (連絡船・初代)」の記事における「関釜連絡船国有化と傭船」の解説
山陽汽船は1906年(明治39年)11月27日、 親会社の山陽鉄道に吸収合併され、その直後の12月1日、山陽鉄道が国有化されたため、関釜航路も国有となった。接続する京釜鉄道は、それより前の1906年(明治39年)7月1日、国有化され統監府鉄道管理局京釜線になっていた。 国有化後の同航路の客貨輸送量の増加は著しく、壱岐丸型2隻では対応できず、1907年(明治40年)8月10日には会下山丸(1,458総トン)を傭船し、1908年(明治41年)4月1日には釜山と中朝国境の町 新義州とを26時間で結ぶ直通急行「隆煕」の運転開始を受け、隔日の昼航便運航が開始され、4月27日には薩摩丸(1,946総トン)を傭船して、昼航便も毎日運航とした。 1910年(明治43年)8月には日韓併合があり、翌1911年(明治44年)11月1日には中朝国境の鴨緑江鉄橋が完成し、南満州鉄道 安奉線に乗り入れ、当時清国であった中国の奉天まで、さらに1912年(明治45年)6月には満鉄本線に乗り入れ、長春まで直通列車が運転された。 内地側でも1912年(明治45年)6月15日から、新橋 - 下関間直通の展望車連結1、2等特別急行列車と速達便貨物列車の運転が開始され、関釜航路の客貨輸送量はさらに増加した。 これに先立つ1911年(明治44年)1月には、青函航路で傭船中の帝国海事協会の義勇艦で、高速を誇るうめが香丸(3,273総トン、最大速力21.315ノット)を転入させ、会下山丸を青函航路へ転出させ、同年4月にはうめが香丸の姉妹船の義勇艦さくら丸(3,204総トン、21ノット)も傭船して薩摩丸を一時解傭し、1912年(明治45年)6月からはこの2隻の高速船による、特別急行接続の9時間30分運航昼航急行便が週3回運航された。
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