関西さわやか銀行を合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 05:40 UTC 版)
「関西アーバン銀行」の記事における「関西さわやか銀行を合併」の解説
伊藤忠彦が頭取に就任した当初の関西銀の資産規模は、約9000億円であった。これは近隣金融機関を見渡しても見劣りする規模で、当時はメガバンクを筆頭に合従連衡が盛んとなっていた時期でもあり、伊藤も合併は選択肢の一つとして青写真を描き、シミュレーションを重ねていたところ、経営破綻した幸福銀行の受け皿銀行として設立された関西さわやか銀行が、本業のもうけを示す業務純益は少ないのに当期利益の水準が非常に高いことに気づいた。そこで関西さわやか銀の決算を精査してみたところ、旧幸福銀の受け皿銀行になる際に引き継いだ債権に対して、国の負担で多額の貸倒引当金を積んでおり、それを毎期の決算で取り崩すことを認められていたことが分かった。 伊藤は、関西銀が関西さわやか銀と合併すればバランスシートの改善が飛躍的に進むと思慮、第二地方銀行協会の例会で顔を合わせることも多く、また母校の京都大学の後輩で親しみを感じていた高橋修一関西さわやか銀頭取(現・AFGコンサルティング社長)と接触をもった。そして、懇談を重ねるうちに高橋は、関西の地銀と合併へ向け協議を進めていたが、合併比率の問題で最終合意に達していないことがわかった。伊藤はすかさず関西銀にも割って入れるチャンスがあると思慮し、合併協議を進めていた地銀と関西さわやか銀は単純合併の交渉を進めていたため、関西銀は関西さわやか銀の株式を所有するウィルバー・ロスの率いる投資ファンドから株式の8割を買い取り、その後、関西銀と関西さわやか銀が合併するとのスキームを高橋に提案した。その提案に高橋も乗り、ウィルバー・ロス側と合併交渉が進められたが、合併比率を算定する根拠となる関西銀株式の時価算定の方法などで交渉はもつれた。2003年2月には、伊藤と高橋はニューヨークまで出向いてウィルバー・ロスと交渉に臨んだ。話し合いは難交渉となったが、伊藤が強気な姿勢を貫き合併協議は合意に達した。同年7月、関西銀がウィルバー・ロスの率いる投資ファンドから関西さわやか銀株式80%を取得し、同行を子会社とした。 2004年2月1日、関西銀が関西さわやか銀を合併し、関西アーバン銀行として発足した。同年7月には関西銀がNEC製、関西さわやか銀が富士通製を使用していた勘定系システム(基幹系システム)をNEC製に統一した。 2007年頃、奈良県奈良市に本店を置く南都銀行の豊富な預金量を当て込んで経営統合を持ちかけ、統合後の名称を「都ホールディングス」とするところまで合意に至るも、その後の統合交渉が不調に終わり破断に至る。
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