閉園とその後とは? わかりやすく解説

閉園とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:42 UTC 版)

横浜ドリームランド」の記事における「閉園とその後」の解説

1990年代末期ダイエー本業不振過度事業拡大負担となって経常赤字転落し深刻な経営危機表面化した2001年には日本ドリーム観光買収にも大きく関わった創業者中内功辞任へと追い込まれ債権を持つ銀行側から2002年の内に約100億の負債処理しない限り今後融資不可能」と通告されたことから、ダイエー本業と関係の薄い系列事業大規模な縮小を行うこととなった。これによって細々営業続けてきた横浜ドリームランド整理対象となり、遊園地として存続したまま経営権譲渡をするよりも、整地した上で不動産として売却するほうが有利との判断から閉園決定した。翌2002年2月17日横浜ドリームランド37年半の歴史に幕閉じた閉園時の敷地面積は、度重なる縮小によって開園当初132万平メートルからおよそ9分の1146千平メートルとなっていた。 横浜ドリームランド土地最終的にダイエー系列十字屋所有していたが、ダイエー債権者である銀行仲介により、閉園先立つ2001年10月中古車流通会社ユー・エス・エスへ約88億円で売却され同社オートオークション会場として使用する計画発表した。しかし原宿交差点さらなる渋滞悪化などを懸念した近隣住民によって強い反対運動起こったことから、ユー・エス・エスドリームランド跡地への進出断念同地横浜市に約104億円で買い取らせ、同市鶴見区大黒町コスモ石油横浜製油所跡地代替地として確保した横浜市取得した土地南北分割し、旧ホテルエンパイア建物ボウリング場を含む敷地南側都築第一学園売却した2006年同学園は取得した土地横浜薬科大学開校させ、旧ホテルエンパイアおよびボウリング場建物改装経て校舎一部として転用されている。残る跡地北側横浜市によって再開発され2008年俣野公園市営墓地メモリアルグリーンが開設された。俣野公園内には俣野公園横浜薬大スタジアム収容人員、約3,000人)も落成している。これらの再開発事業先立って周辺にあったダイエー系の商業店舗はすべて閉鎖解体されたことから、横浜ドリームランド遺構相州春日神社や、横浜薬科大学施設転用された一部建物以外残存しない。 2021年11月には、横浜市神奈川区外食企業「FirstDrop」により中央区花咲町に本園の名を冠した飲食店街「横浜ドリームランド」が開業している。旧遊園地との資本的な関係は無いものの、マスコットキャラクタードリちゃん」「ランちゃん」や近衛兵イラスト用いるといった旧遊園地イメージ施されている。

※この「閉園とその後」の解説は、「横浜ドリームランド」の解説の一部です。
「閉園とその後」を含む「横浜ドリームランド」の記事については、「横浜ドリームランド」の概要を参照ください。

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