門司町への改称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:17 UTC 版)
文字ヶ関村の人口は、1889年(明治22年)には3130人であったが、1893年(明治26年)には8182人、1894年(明治27年)には1万0077人にまで増大した。特に、仲仕と呼ばれる港湾労働者が増加したが、上下水道、道路、住居、衛生、納税など、都市基盤整備が立ち遅れ、村政は混乱していた。そのような中、1894年(明治27年)6月、本町1丁目に役場の新築が着工され、7月26日の福岡県知事告示によって、文字ヶ関村は門司町と改称された。 門司町となった2日後に日清戦争が開戦し、1895年(明治28年)4月、下関(赤間関市)で講和条約が締結された。この日清戦争の間に、門司・下関両港は要衝の港として更に発展した。『門司新報』は、1896年(明治29年)1月の記事で、「今や六年前の漁村蟹(かい)屋たりし門司浦は全たく旧形を一変して四通八達の一市街と化し、更らに進んで開港場となり、市とならんとするに至りたり。」と書いている。 この頃、山口県赤間関市と門司町との合併論が唱えられ、1896年(明治29年)2月の『門司新報』では、山口県から内務省に門司併合の申請があったと報じられた。しかし、赤間関市政の混乱もあり、合併論は沈静化した。 1897年(明治30年)、門司町長前田益春が病気を理由に辞任すると、門司町会は、前田前町長を、町長当時の報酬を保障する名誉助役に推薦し、郡長を新町長に推挙するとともに、町長の年俸を480円から1200円に引き上げようとした。これに対し、町政の根本的改革を主張する改革派が反対運動を起こし、町会派と改革派の対立によって町役場の事務は停滞した。結局、前田前町長を名誉助役にする件は県の認可が得られず、両派の妥協により、臨時町会で後藤章臣前郡長を選出し、年俸は800円とした。
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